飼い犬と再会し声を上げて泣いた夫婦

 近所の人からの情報提供を元に、2011年4月半ばにロッキーというシェットランド・シープドッグを保護した。福島第一原発から3キロほどの民家だ。電話で飼い主に犬の無事を知らせ、鳴き声も聞かせたが「そうですか」と興味がないかのようだった。そのまま東京に連れ帰り、近所の犬の訓練校にお願いして置いてもらった。後日、都内に避難している飼い主ご夫妻が面会に来ることになり、私も立ち会った。すると、ご夫妻は号泣しながら私にこう言ったのだ。

保護猫事業で見た「社会の闇」ゴキブリ屋敷の飼い主と犬猫、犯罪者のペット…ロッキー。野生動物か犬の群れに襲われたと思われる酷いけがを負っていた(2011年4月、都内のドッグランにて)

「あなたを信用していなかった。(電話での対応は)申し訳なかった。私たちは、家も仕事も財産も故郷も失った。でもロッキーが戻ってきた。生きる希望をありがとうございました」

 私は犬を助けただけだったが、人の心の一助になったようなこの体験は強烈だった。泣きながら何度も何度もお礼を言われるなんてことが、リアルな人生の中であるなんて。「役に立てた」という自己肯定感もさることながら、動物保護は誰かの人生に大きく関わることだと認識した瞬間でもあった。

 その後も、捜索依頼のあった犬や猫を見つけては飼い主に戻し続けた。「ありがとう」と喜ぶ飼い主の姿を見られるやり甲斐と、過去の自分への贖罪と、理由は半々であった。

増える保護猫、足りないペット可賃貸

 初めは順調だったものの、次第に福島から連れ帰った犬猫は預かり先・譲渡先に行き詰まるようになっていった。特に猫は数も多く、深刻だった。行き詰まりの理由の一つが、ペット可の賃貸物件数が圧倒的に市場に足りないというものだった。

「ないなら作ろう」と、2014年、猫専用を銘打った不動産会社を仲間と立ち上げた。猫専用にしたのは、福島から来る大量の猫を念頭に置いてのこと。猫を社長としてキャラクター化した戦略はメディアに面白がられ、事業は順調なスタートを切った。

 ところが、不動産事業で扱った店舗にトラブルが起き、猫カフェを始める予定だったテナントが退去してしまった。穴をあけてしまうのも悔しいので、自分で里親募集型の保護猫カフェをやってみることにした。それが猫という沼への入り口だった。

 何の計画もなくヨロヨロと始めた保護猫カフェだったが、少しずつ認知度も上がり、譲渡数も増えていった。それと並行して猫にまつわるさまざまな相談が寄せられるようになった。一般の人だけでなく、福祉関係の事業者や行政から来る相談は重いものも多く、さながら“よろず相談所”のようだ。

 そこから見えてきたものは、社会のセーフティーネットからこぼれ落ちた人々の存在であった。日頃私たちが見ている景色にはいない人たちである。