なぜ高橋容疑者は組織委理事になったのか? 

 日本のスポーツ界には、1911年の大日本体育協会(体協)創設以来自らの運営資金を稼ぐという発想がなかった。アマチュアであることの誇りと甘えの構造とも言えるかもしれない。

 日本アマチュアスポーツ界は、1980年から始まった「がんばれ!ニッポン!キャンペーン」という電通の肝いりで推進してきた選手強化費調達プログラムに頼っていたのだ。

 しかし、モスクワ五輪ボイコットの反省から「自律」を目指し、1989年JOCは体協から独立した。それは同時に電通からの財政的独立の試みでもあった。1991年、長野冬季五輪招致に成功するとJOCは、本格的に自ら資金調達プログラムを立案し、運営しようとする。JOMという会社を作り、オリンピックマーケティングを一任し、電通を通さず直接スポンサーを獲得することで、その収益は倍増以上となった。しかし一方で、危機感を募らせた電通は巻き返しを図り、水面下でJOC首脳部を懐柔していく。

 長野五輪閉会の2年後、2000年にJOMは解散した。

「電通に任せておけば大丈夫」という流れが再び起こる中で、2001年、竹田恒和JOC会長が誕生した。そしてその誕生の後見となったのが高橋治之氏である。

 高橋氏は竹田氏の幼稚舎から慶應大学に至る先輩であり、兄弟付き合いの仲だった。スポーツ界にとって、JOC会長が電通出身の高橋氏と密接な関係にあるとすれば、それだけで高橋氏の存在に箔が付く。

 それは電通にとっても好都合の状況であった。

 高橋氏の存在は「竹田JOC体制」で電通の存在感と比例して次第に大きくなる。東京2020の招致活動においてもコンサルタント契約が結ばれ、高橋氏は「招致成功の立役者」と持てはやされる。そして2014年、高橋氏が組織委理事に就任する流れにつながったといえるだろう。

 元電通の高橋氏がなぜ組織委理事に就任できたか? それはつまり、スポーツ界がしらずしらず、高橋氏の偶像を無批判に崇拝したからに他ならない。そして高橋氏は組織委理事の肩書を得ることで、スポンサーになろうとする企業にとって重要な存在になることができたのである。