アディダスと電通、2人の男から始まった五輪のマーケティング

 そもそも、なぜオリンピックマーケティングが誕生したのか?

 冷戦時代末期、グローバル志向とともに、スポーツがビジネスになると考えられ始めた。

 この頃、スポーツが国境を容易に越えられる手段であることに着目していたアディダスの二代目最高責任者、ホルスト・ダスラー氏は、スポーツを通じて得られる各国の情報収集と分析に傾注していた。その中で、国際サッカー連盟(FIFA)や世界陸上競技連盟(現WA)の大会マーケティング権利を取得していった。

 同時期、電通には服部庸一氏(後の常務取締役)がいた。彼こそがスポーツビジネスを切り開いた男である。1978年に開催が決定したロサンゼルス五輪(1984年)のスポンサーシップ交渉権獲得に乗り出し、執拗な交渉の末に独占代理店契約に成功する。1980年3月のことであった。

 1980年はモスクワ五輪開催の年。しかし、前年暮れにソ連のアフガニスタン侵攻が起きたことに対抗して、米国のジミー・カーター大統領がモスクワ五輪ボイコットを西側諸国に呼び掛けた。その結果、参加国は80カ国にとどまってしまった。オリンピックの「スポーツでより平和な世界をつくる」と言う理念が瓦解したのだ。

  国際オリンピック委員会(IOC)はスポーツの「自律」を主張し、政治に支配されない状態を作るため、そして五輪開催を持続するために、自ら財政的基盤を作るべきだと悟った。

 しかし、オリンピックがオリンピック自身で収入を獲得し、その収入で開催する方法はあるのか。