当時の規程では、乗務員は消火器などでの消火が不可能と判断したときは、他の車両への延焼を防止し、被害を最小限にとどめるため、火災車両の前後を切り離すと定めていた。

 停車後、乗務員は食堂車より後ろ車両の切り離しを試みたが当時、トンネル内照明は運転士の信号視認を妨げるとの理由から常時消灯されており、また点灯スイッチの位置も乗務員に知らされていなかったため、作業は難航した。

 ようやく午前1時45分、後部車両を後方60メートル切り離すことに成功したが、食堂車の火災が更に激しくなったため、続いて前部車両も食堂車と切り離す作業に着手した。

 ところがその作業中の午前1時52分、火災の影響でトンネル内の樋が溶け、架線に接触したため走行用の電気が停電し、列車は動くことができなくなってしまう。乗務員たちは列車のドアを開放し、燃え盛る食堂車と反対方向に逃げるよう乗客に呼びかけるが、トンネル照明のない暗闇の中での避難は困難を極めた。

 食堂車の後ろに連結されていた12両目(普通車指定席)、13両目(グリーン車指定席)の乗客98人は、一部が徒歩で後方敦賀側に脱出。残りは煙がひどくなったので窓や通気口をふさいだ車内で救援を待ち、全員が救出された。列車後部には貨物車掌や郵便係員などが多く乗車していたことも幸いしたようだ。

 しかし、1両目から10両目の乗客は煙にまかれて大きな被害が出た。北陸トンネルは敦賀側から金沢側にかけて標高が上がる構造だったため、トンネル自体が煙突となる「トンネル効果」が発生し、火災が激化。煙が前方に流れたためだ。

 事故後、午前3時から午後2時まで複数の救援列車がトンネルに入り生存者を救助したが、乗客29人と乗務員1人が犠牲となった。死因はほとんどが一酸化炭素中毒であった。

過去の教訓を設備・規程に反映せず
「きたぐに」の悲劇を生むことに

 今日的な視点で見れば、なぜ、トンネル内に停車したのかと思うだろう。鉄道事業者は現在、トンネル内で車両火災が発生した場合は次駅やトンネル外など避難可能な場所まで走り抜けることを原則としているが、当時の国鉄は、1960年代に相次いだ事故の教訓として、火災を含めて異常が起きたら必ず列車を直ちに停車させ、危険がなくなるまで列車を止めて対応すると定めていた。

 しかし、後から考えれば、事故前に規程を見直すことは可能だった。北陸トンネルでは3年前の1969年にも寝台特急「日本海」(機関車含む14両編成)の電源車から出火する列車火災が起きていた。