「義烈空挺隊」を「愚劣食放題」と自虐
菊澤研宗 著
定価1155円
1945年1月に入ると、奥山指揮官率いる神兵皇隊は、サイパン島への出撃基地となる浜松飛行場へと移動した。そして、ここで部隊名称は「義烈空挺隊」に変更された。
しかし、作戦決行日が未定のまま、浜松飛行場で義烈空挺隊は待ち続けることになる。「特攻せよ」と死ぬことを命令されながらも、年が明けても出撃命令は下されなかった。というのも、その間、サイパン島に至る途中の給油地であった硫黄島の戦況が悪化したからである。
このような戦局で、大本営陸軍部は義烈空挺隊168名を犠牲にする作戦の決行に躊躇していた。しかし、死を覚悟している隊員にとって、待たされること自体が残酷な仕打ちであった。「まだ死なせてくれないのか、もう死なせてくれ」と言う兵士も出はじめていたのである。
同年1月22日まで、義烈空挺隊は浜松に待機していたが、結局、出撃命令は出なかった。作戦の延期が決定され、義烈空挺隊は再び訓練を開始した。しかし、出撃の見通しが立たないために、兵士の士気は上がらず、いつしか隊員らは、出撃もせず毎日美食している自分たちの「義烈空挺隊」の部隊名を、「愚劣食放題」と自虐的に自称するようになっていた。そして、1月27日に義烈空挺隊は古巣の宮崎県川南町に帰っていった。
1月30日、米軍による硫黄島侵攻の可能性が高まったことから、義烈空挺隊によるサイパン攻撃は正式に中止となった。その代わりに伝えられたのは、硫黄島の千鳥飛行場への突入命令であった。硫黄島の米軍の爆撃機は少数であり、大部分は戦闘機であった。それゆえ、奥山隊長率いる義烈空挺隊の訓練内容も大型機B29から小型機の破壊作戦へと切り替えられた。
同年2月16日、硫黄島に米軍が上陸を開始し、硫黄島で日米の戦いが始まった。硫黄島の千鳥飛行場に突入するため、義烈空挺隊は宮崎県川南町から茨城県つくば市の西筑波飛行場に移動し、出撃準備を整えた。しかし、硫黄島の戦況が悪化し、硫黄島への出撃も中止となってしまった。