「財源」は概ねある
財源論の罠にはまるな

 さらに付け加えると、現金給付型の政策の場合、同額の課税を追加的に行うとした場合に、財源となる負担能力は社会全体にあるはずだ。社会全体として「財源がない」という話にはならない。それだけの現金を追加的に配っているのだから、マクロ的に財源はある。

 ただ、再分配の大きさが適切かという問題はあるし、支給額を無限に大きくすると、その過程でひどいインフレが起こるだろう。

 児童手当のような形で現金を一律に給付する政策はさまざまに考えられていいし、それらを統合した先にはベーシックインカムがある。ベーシックインカムとそのための追加的負担として時々の社会に可能な、いわば実力相応の上限額はあり得る。

 ザックリ計算して、日本国民一人に一月1万円の現金を配ると年間15兆円のお金が動く。一人7万円のベーシックインカムを税金で賄うならなら105兆円の給付と税収が追加的に生じるが、この程度なら十分に可能だろう。

 例えば、同じように7万円もらって、10万円追加的に課税される人と、4万円しか追加課税されない人とがいたら、前者から後者に3万円再分配されたという計算になる。

 しかし、一人に毎月20万円となると、給付と追加的税金の額は共に300兆円となって、これはたぶん現実的ではない。

 なお、冒頭に討論番組のやりとりとして紹介したが、立憲民主党の岡田氏が指摘する、支出と財源を一対一対応で議論することも大きな問題だ。報道に見られる多くの「財源論」がこの罠にはまっている。財務的管理としてバカげた非効率性である。

 また、「財源」なるものは、時々のマクロ経済環境で適切なものの選択が変わることにも注意が必要だ。例えば、「年間○兆円の支出が追加的に必要だが、今はインフレ率の期待値が低いので国債でファイナンスすることが適切だ。一方、インフレ率が継続的に2%を上回る見通しになれば、(例えば)所得税と固定資産税を必要額だけ増税する…」といった形で、個別政策の財源に関して議論したらいい。

「どのような基準で、いつから、いつまで?」という条件を抜きに、財源を国債にするか、特定の税金にするかを論じるのは不適切だ。