そのため、明治22年(1889)に皇城に新宮殿(皇居)が完成するのに併せて、兵営を移転させた。後で触れるように、桜田門外や神田三崎町に置かれていた練兵場は、青山練兵場などに移った(図表5-1、5-2)。
この移転費用を捻出するために、その翌年、旧大名小路の土地のほとんどは一坪12円で三菱会社に売却された。この場所は現在の丸の内地区で、当時は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。三菱会社はロンドンをモデルにして、煉瓦建てなどの洋風ビジネス街を整備した。兵営の移転先は麻布や赤坂であった。
日本橋は、明治時代になっても大きな変化はなかった。水運網と直結していた日本橋は東京の経済を支え続けていた。銀座の場合、明治5年(1872)の「銀座の火事」をきっかけに、政府の肝いりで、明治10年に銀座煉瓦街が完成し、新橋停車場から皇城までの途中ということもあって、「近代化」の象徴になった。
霞が関の中央官庁は、現在も国政の中枢を担っており、丸の内のオフィス街には日本はもちろん海外の有力企業の本部機能が集積している。江戸時代には薬種問屋街が形成されていた日本橋周辺には、現在では多数の製薬大手の本社などが立地している。江戸時代は職人街だった銀座には、我が国を代表する商店や、海外の有名ブランドの店舗が集まっている。
それらの業務の内容のほか、建物の規模や設備は、江戸時代や明治時代と比べれば、はるかに高度化され大規模になっているのはもちろんだが、機能としては引き継がれている。
都市機能が引き継がれた理由
GHQによる官僚体制の温存
その背景には、江戸幕府から明治政府になっても、社会・経済システムの多くがそのまま使われ続けたことにあった。明治維新の実態は「政権交代」に近かった。
たとえば、明治政府の地方制度では、江戸時代以来の地方における地主階層を頂点とする間接統治システムが利用され、戦前の地方制度の完成版ともいえる市制町村制では、「財力知識ヲ備フル地方名望家」を最大限に活用した。地方名望家とは、江戸時代からの系譜を持った地主層であった。
経済政策に関しても、圧倒的多数を占めていた従来型の産業に関しては、江戸時代の株仲間の系譜を持った同業者の団体(同業組合)が対象となった。江戸時代に培われた社会システムが明治以降の日本の基礎になったわけである。