しかも、明治政府が中央集権化を進めると、首都となった東京で「司令塔」となったのが、皇城を取り囲むかたちで以前の大名屋敷の跡に開設された官庁街や軍の施設であった。それが、大名小路や霞が関(桜田門外)、常磐橋門内の現・大手町一帯であった(図表5-1)。
時代が進んで、昭和13年(1938)に国家総動員体制が成立すると、自律的な機能を持っていた業界団体などが中央官庁の強い影響下に再編され、国家=官の下請け機関に変質した。そこには昭和7年の満州国建国で決定的な役割を果たした「革新官僚」の動きがあった。
革新官僚の代表的人物が岸信介元首相である。彼らは昭和11年(1936)の二・二六事件の後に帝国政府の中枢に復帰し、国家総動員体制と昭和15年の大政翼賛体制の発足を主導した。大東亜戦争開始とともに強力な企業統制令が定められ、中央による統制は一層強められた。
間接占領統治を前提としたGHQ(連合国最高司令官総司令部)の占領政策は、戦時体制までに強化されていた官僚システムを温存した。それゆえ首都中枢部の機能や、それらが立地する市街の形を変える必要は生じなかった。
国立国会図書館HPによれば、天皇の戦犯除外に関してマッカーサーからアイゼンハワー陸軍参謀総長に宛てた書簡(昭和21年1月25日付の電報)において、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢を混乱させ、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となる旨を述べている。大日本帝国憲法では、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」ていたから、天皇の官吏が構成する官僚組織の活用と「天皇の起訴」は矛盾していたともいえる。
鈴木浩三 著
もちろんマッカーサーに訴追を回避させた背景には、帝国陸海軍の硫黄島や沖縄での戦い、特別攻撃(特攻)など、一見すると無謀ともいえる徹底抗戦が、米軍にメンタル面も含めた甚大な損害を与えていたことも見逃せない。平穏な占領を低コストで確保するには、日本人に徹底抗戦の気持ちを持たせない努力が重要であった。
サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が独立を回復した後も、中央官庁の主導によって資源の集中投入や所得の再分配が行われた。この構造は、戦後復興期から高度経済成長期などを経て、1980年代まで続いた日本の「黄金時代」を支えた要因の一つとなった。
このように、皇居と官庁街、それを取り巻く丸の内や日本橋の業務地区の機能は、高度化はしたものの、本質的には変わらなかった。それが、首都中枢部の市街の構造に大きな変化が発生しなかったことに通じている。