だが、人工的に制定されたスジが権威ヅラしても、伝統としてのほんとうの力を持たないのはとうぜんだ。古いものに惰性的であるくせに、日本人が意外にも伝統に対して消極的なのはそのせいだ。

「伝統」は大衆の生活とは無関係、そのもりあがりなしにつくりあげられたのだ。官僚が選定したものだけが権威的伝統だなんて、そんな屈辱的なナンセンスはない。

ほんとうの伝統とは
人間の鮮明力を打ちひらく原動力

 それでは、われわれ自身にとっての伝統とはいったいなんだろう。

 私は「伝統」を、古い形骸をうち破ることによって、かえってその内容――人間の生命力と可能性を逞しく打ちひらき、展開させる、その原動力と考えたい。この言葉をきわめて革命的な意味で使うのだ。

 因襲と伝統とはちがう。

 伝統はわれわれの生活の中に、仕事のなかに生きてくるものでなければならない。現在の生きがいから過去を有効的に捉え、価値として再認識する。そのときに、現在の問題として浮かびあがってくるのだ。

 古いものはつねに新しい時代に見返されることによって、つまり、否定的肯定によって価値づけられる。そして伝統になる。したがって伝統は過去ではなくて現在にあるといえる。

 だがいままで「伝統」はもっぱら封建モラル、家元制度、閉鎖的な職人ギルド制のなかで、因襲的に捉えられてきた。アカデミックな権威側の、地位をまもる自己防衛の道具になって、保守的な役割を果たしているのだ。

写真:太陽の塔の頂部に輝く 黄金の顔本書より。太陽の塔の頂部に輝く《黄金の顔》。未来を象徴するもので、眼にはサーチライトが埋め込まれている。

 私の考えを展開していく前に、具体的に現状をとりあげてみよう。たとえば次のようなことはどう考えるべきだろう。

――画家として身をたてようとする。芸大なんていう官学コースはもちろん、ほとんどの画学生が、まずその第一歩はギリシャ彫刻の石膏像をコピーすることからはじめる。やがて油絵具を使って、西欧19世紀的アカデミズムを習得する。情熱をもって日夜真剣に考えるのは、ゴッホでありピカソである。絵描きには浮世絵や雪舟よりも、ギリシャ・ローマの西欧系の伝統のほうが現実の関心になっている。とすると、これはいったいどういうことか。

 文学だって、源氏物語が日本の誇りだとか、新古今だとか俳諧だとかいうが、だれがそれをほんとうに熱愛し、感動し、それによって人格形成をされるのだろうか。