バランスの崩れる
急成長は望まない

 改革の効果もあってか、食数はコンスタントに伸びていきました。私が入社した1997年の食数が2万食程度。それが1年後には2万4000食、2年後には2万7000食、3年後には3万食という具合です。

 90年代後半、バブル崩壊後の不況が長引いてデフレ傾向が強まる中で、弁当のコストパフォーマンスがあらためて見直される時代状況も後押ししてくれたのでしょう。玉子屋の弁当はほかの弁当に比べて極端に安いというわけではありませんが、クオリティの高さと値段のバランスが支持されたのだと思います。

 食数や売り上げを伸ばすのは意図していたことですが、1.5倍とか2倍というような急成長はむしろ望ましくないと考えました。社員の成長と売り上げの伸びは正比例するべきであって、これがズレて売り上げの伸びに対して社員の成長が追いつかなくなると、玉子屋のサービスにお客様が満足できなくなって「三方よし」が崩れるからです。

 ゆえに配達エリアを一気に広げて、注文を取りまくるような営業は控えることにしました。既存のエリア内で地道に営業しながら、玉子屋の評判を着実に高めて食数と売り上げを伸ばしていく。ベースとしては年間20%の売り上げアップを念頭に置いていました。毎年20%増を達成できれば、5年後には売り上げは倍になりますから。

 実際、3万食までは売り上げは年20%増ペースで伸びていきました。しかし3万食が一つの分岐点で、社員の成長と売り上げが正比例して伸びても、工場の稼働率が限界に達してくる。そんなときにたまたま隣の町工場が廃業して、新工場をつくるのに最適なスペースが空きました。そこを買い取って新工場を建設し、生産能力を1万食増やしました。

「あと1万食、営業で取ってこられるぞ」ということで社員の皆も燃えてくれて、次の年には3万5000食、その翌年には4万食に達しました。

 食数が増えるにしたがって食材の仕入れも増えます。食材の仕入れが大量になるほど、値引きの幅も大きくなります。また3万食を超える規模になると、食品メーカーに頼んでプライベートブランド(PB)の商品をつくってもらえるので、よりリーズナブルな値段で食材が手に入ります。その分、よりよい食材を使えるから、値段は同じでも弁当のクオリティは高まるし、バラエティに富んだ弁当が提供できるわけです。

 その後も頃合いよく用地を取得できました。バブル崩壊は設備投資の面でも追い風になったようで割安な出物に出会えたし、会長や専務の目利きもあったと思います。もともと4万食ぐらいまでは増やすつもりでいましたが、第1工場、第2工場、洗浄工場、炊飯部門のライスセンターと生産能力を拡張した結果、6万食まで対応可能になりました。

 こうして、玉子屋は8年で3倍の注文を受けるほどに成長していったのです。