したがって、単純な危害説は悪口の悪さを説明する考えとして不十分です。むしろ、人が傷つくかどうかや、不快に思うかどうか、という基準ばかりに焦点を当てることで不都合も生じます。いじめられている側が、「やめろバカ!」と、多少乱暴な言葉を使って、自分の身を守ろうとしたとします。そのとき、その言葉遣いは他人に不快感を与えますからやめましょう、などといじめられている側に自制を求めたとすると、これほど不条理なことはないでしょう。これと類比的に、女性や黒人といった差別されている側が批判の声を上げたとき、批判の内容ではなく、言葉遣いや言い方に論点をそらせて黙らせようとする行為は、「トーン・ポリーシング」(tone policing 口調の取り締まり)と呼ばれています。
悪気はなくても
悪口になるケースも
次に、言う人の心が悪口の悪さを説明すると考える、悪意説を検討します。誰かを傷つけてやろう、いじわるをしてやろうと思い、あるいはその人をバカにして、軽蔑して、悪口を言うことが確かにあります。そのように人の悪意に触れることは、辛くて悲しいことです。悪口が悪いのは、そして悪口で傷ついてしまうのは、言う側の悪意が理由である、という発想です。
この悪意説も、私たちの常識と一致するところがありますが、不十分です。悪意がなくても悪口を言うことができるからです。もし悪意説が全面的に正しければ、「悪気はなかった」という言い訳ひとつでどのような発言も許されてしまうでしょう。「悪気はなかった」に説得力がないのは、これが白々しい嘘だからではなく、悪気があろうがなかろうが、発言に問題があると私たちが考えるからです。意図的であろうとなかろうと、例えば、交通事故を起こされては困るのと類似的です。
悪意なく、本当に無邪気に、愛情を込めて述べる発言が悪口となる場合があります。いじめている側にその意識がなく、むしろ相手が喜んでいると思って、見た目などを「いじる」例がそれにあたります。差別的発言の中にも同じような例があります。男尊女卑的な社会や、白人至上主義的な社会に生まれ育った人物が、女性や黒人に対して侮蔑的なことを述べるとき、その人は子どものときから慣れ親しんだ会話のパターンを繰り返しているだけで、本当に悪気はないのかもしれません。しかし、差別的発言はその意図がどうあれ差別的発言です。