江頭匡一・ロイヤル創業者
 今回は、ロイヤルホールディングスの創業者でファミリーレストランの草分け、江頭匡一(1923年3月25日~2005年4月13日)のインタビュー。「週刊ダイヤモンド」1983年1月8日号に掲載されたものだ。

 60歳の還暦を間近に控え、江頭は冒頭から「50歳まで生かしてもらえたら、もう十分満足だと思っていました」と語っている。内臓疾患でこれまでに都合7回の手術をしているためだ。この話は、佐野眞一著『新忘れられた日本人』(毎日新聞社、2009年)にも記されていて、「江頭は創業以来、一日十食の試食を自分に課してきた。その過重負担が、十二指腸潰瘍、直腸潰瘍、胆石、胃潰瘍、盲腸、胆嚢壊疽、肝炎などを発症させ、七つのメス跡となって刻まれた」とある。

 江頭をモデルにした小説に『外食王の飢え』(城山三郎著、講談社、1982年)がある。小説の主人公は50代半ばにして自動車事故でこの世を去るが、当時の江頭はまだまだ健在。とはいえ、「50歳くらいまでしか生きられないだろう」というのは本心だったようで、2カ月後に予定している還暦パーティーは盛大に行うと宣言している。ちなみに江頭は82歳まで長生きし、「家内が生きているうちに死ねたら、一番幸せだな」という望み通り、喪主は夫人が務めた。

 飲食業を産業化することを人生のテーマとしてきたと話す江頭。福岡の米軍基地でコックの見習いからスタートし、機内食と空港内食堂で創業。その後、福岡の中洲にレストランを構えると、日本の飲食業を米国のような一大産業にするという目標を掲げ、セントラルキッチン(集中調理工場)やフランチャイズ制を導入し、日本の外食産業の発展をリードした。

 インタビューの終盤では、教育面からも外食産業を支えたいと訴えている。そんな思いから82年に設立した江頭ホスピタリティ事業振興財団は、ホスピタリティ産業を志す学生への奨学金給付事業や、業界に関わる研究費助成などを今も行っている。また、92年にはコックの養成機関「ロイヤルクッキングアカデミー」も設立した。高卒の新入社員約80人が寮生活を送り、料理の基本や社会人としての一般常識を学ぶ学校だった(2005年に終了)。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

都合7回の手術
50歳まで生きれば満足と思っていた

「週刊ダイヤモンド」1983年1月8日号1983年1月8日号より

 若いときには、健康に対して絶対の自信を持っていました。旧制中学から航空機乗員養成所に入ったほどですから。しかし、事業を始めてから、気を使うだけ使って、空腹を抱えて、むちゃくちゃに働いて、家に帰るとどさっと食べる。そんなことしてるから、自然と胃や腸が悪くなったんですよ。

 26歳のとき、十二指腸穿孔性腹膜炎をしてから後は、散々でしたね。2度目の手術をした後は、お医者さんから、50歳まで生かしてもらえたら、もう十分満足だと思っていました。

――本当にそう思っていたんですか。

 本当にそう思っていたから、荒木副社長や木山専務に来てもらえたんです。

 私は50歳くらいまでしか生きられないだろう。せっかくつくった会社はつぶしたくないですから、銀行を辞めてうちに来てもり立ててください。そう言って口説いたんです。だから来てくれたんですよ。

 50歳になったとき、博多の芸者を総挙げしましてね、「まさ」という福岡で一番の料亭に、お世話になったお医者さんご夫婦、病院の婦長さんとか50人くらいお呼びして、お礼を申し上げたんです。50歳まで生かしていただいて、ありがとうございますってね。

 その折、九大の操(坦道・医学部)教授が立ち上がりましてね、あなたのことは、われわれみんなで診てあげるから心配はない。しっかり働きなさい。そして60歳まで生きていたら、この何倍かのパーティーをしてくれ(笑)、そう言われましてね。その60歳が、今年の3月25日なんです(笑)。

 今度は、お医者さんばかりでなく、病気以外でお世話になった方々も一緒にと思っていますんで、“西鉄グランドホテル、3月25日、150人予約”って手帳にちゃんと書いています。東京から、歌手でも呼ばなければと思ったりしています(笑)。