不朽#ベニハナ・オブ・トーキョー社長・ロッキー青木
 ロッキー青木こと青木廣彰(1938年10月9日~2008年7月10日)は、外食業界の伝説的人物だ。慶應義塾大学の1年生だった青木は1959年、学生レスリングの日本代表メンバーとして渡米したが、そのまま米国にとどまり、ニューヨーク市立大学シティカレッジでレストラン経営を学ぶ。62年、ニューヨークのハーレムでアイスクリームの移動販売を始め、これが成功。3カ月で1万ドルを得た。それを事業資金に64年、当時、日本で洋食店「紅花」を展開していた両親を呼び寄せ、マンハッタンに鉄板焼きレストラン「BENIHANA OF TOKYO」を開業した。

 お客を鉄板の前に座らせ、焼き上がった食材をその場で皿に盛って提供するという日本風の鉄板焼きスタイルに加え、タップダンサーだった父、青木湯之助のアイデアで、ナイフや塩・こしょうの瓶を投げながら肉を焼くといった派手なパフォーマンスを取り入れたところ、その斬新さが米国人に好評を博す。米国内に80店舗、全世界で110店舗にまで拡大していく中で、BENIHANAの名と共に青木の名も、日本食を世界に広めた草分けとして、アメリカンドリームを体現した男として知れ渡っていく。

「週刊ダイヤモンド」1978年10月7日号では、39歳の青木が、いかにして自分は米国で成功したかについて、自身が筆を執り寄稿している。青木は、「米国でビジネスに成功するためには、四つの“掟”に従順でなければならない」として、「幸運」「人の金」「ブレーン」「パブリシティー」を挙げる。「掟を守りさえすれば、あなただって米国で成功できる」というのである。

 さて、一方で青木は、3度の結婚と2度の離婚を繰り返し、6人の子どもをもうけている。そして、99年にインサイダー取引で逮捕されているが、その際に相続対策のため金融資産をトラスト(信託)に移転した。ところが、たびたび遺言書を書き換えるものだから、生前から親族の間で財産分与を巡り骨肉の争いが繰り広げられた。青木は2008年に69歳でこの世を去ったが、いまも相続争いは収まらず、しばしば話題になる。米国で夢をかなえたビリオネアも、金の遺し方については成功者とはなり得なかったようだ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

いくら金があっても
幸運がないと成功はない

週刊ダイヤモンド1978年10月7日号1978年10月7日号より

 米国でビジネスに成功するためには、四つの“掟”に従順でなければならない。

 第一は、「幸運」である。第二は、その幸運を生かすためにある程度の「金」がなければならない。第三には、その金で「ブレーン」を買うことである。第四は、これらの要素を再生産していくための「パブリシティー」、つまり自己の売り込みである。

 日本人は金さえあれば何でもできると考えているが、幸運が付いて回らなければビジネスは成功しない。“幸運”を“チャンス”と置き換えてもよい。

 振り返れば、父親が私を米国へ渡してくれなかったら、今の自分はなかった。私はまずそのチャンスを物にした。米国に行くにも金がかかる。