結局、“二条親政派暴発説”以外のすべての説が致命的な欠陥を指摘され、学問的に成立しないと判明した。“二条親政派暴発説”を支えるのも状況証拠ばかりで、決定打といえる物証がない。〈学問的に成立する余地がある唯一の仮説〉というだけで、“定説”とはほど遠い。

 次の壁は、平治の乱をめぐる最も不幸な事実といえる。平信範という廷臣の日記『兵範記』で確かな詳細が判明する保元の乱と違い、一次史料(同時代の生の記録)がほぼ皆無なのだ。

 平信範は、保元の乱が勃発したその日に、官軍の本拠地の内裏(高松殿)にいた。彼はその目で官軍の出撃と凱旋を目撃し、戦後処理に事務官として自ら関わった。800年以上も生き残った希有の目撃談であり、日記も比較的詳細で、分量も多く、前後の数カ月を通して記事がある。これによって官軍の陣営から見た乱の様子と、その前後の政治情勢が克明に把握できる。

 そのようなまとまった一次史料が、平治の乱にはない。平信範はこの時期にも日記を記していたはずだが(平治の乱より後の日記がある)、平治の乱の時期の分が残されていない。彼以外にも多数の廷臣が日記を書いていたはずだが、平治の乱の時期の分は一つも発見されていない。平治の乱の一次史料は、私が発見した31年後の頼朝の証言(を記した九条兼実の日記『玉葉』)を除くと、戦後処理に携わった検非違使の日記の一日分と、数点の関連文書しかない。

「天皇に裏切られた」
源頼朝、31年越しの告白

 義朝の逆罪、是王命を恐るに依てなり。逆に依て其の身は亡ぶと雖も、彼の忠又た空しからず。

 源頼朝は、こう語った。「父の義朝は忠義の心で、天皇の命令通り挙兵したが、天皇の裏切りで反逆扱いされ、殺された」と。二人きりの密室で、摂政の九条兼実は確かにそう聞いた。

 建久元年(1190)冬、京都で一つの完全犯罪が暴かれようとしていた。その犯罪は、日本の歴史上でそれなりに有名な、しかし小さな一つの戦争の中でなされた。平安時代の末、平治元年(1159)に勃発した“平治の乱”である。その真相はこれまで、誰にも気づかれなかった。今日まで犯罪の隠蔽は成功したのであり、“完全犯罪”と呼んでいい。

 面白いことに、当時の国家権力と関係者の全員が、真相を隠蔽した。加害者側が、ではない。事件と無関係の者も、そして被害者さえもが、この犯罪を隠蔽した。