事件の31年後、鎌倉幕府を樹立する総仕上げの中で、源頼朝がこの完全犯罪を暴きかけた。

 治承四年(1180)に挙兵してから、頼朝は苛烈な内乱を戦い抜き、木曾義仲や平家を滅ぼし、奥州藤原氏も一掃して最終勝者になった。朝廷を率いる後白河法皇は、内乱中に一度も顔を合わせずに提携してきた頼朝と、対面して友好関係を再確認するため、頼朝の上洛と会談を望んだ。頼朝は渋ったが、後白河の熱心な要望に根負けし、上洛することになった。

 建久元年11月9日、頼朝は後白河の御所で会談し、内裏で後鳥羽天皇に挨拶し、そのまま内裏で九条兼実と会談した。兼実は当時、摂政として廷臣を代表していた。

 頼朝は兼実と面談し、それまで通りの協力関係を確認して、兼実を安心させた。それに続けて、今後の抱負を語った。「私は亡き父義朝の役割を引き継いで、朝廷の治安維持の総責任者として責務を果たすつもりです」と。朝廷にも兼実個人にも、心強い表明だった。

 兼実はこの会談を、日記『玉葉』に書き留めた。その記事は、頼朝の上洛中の政治動向を示す一級史料として、歴史学者によく知られている。私自身も、その史料価値を活用して論文を書いた。頼朝の表明は、朝廷と鎌倉幕府が手を携える新たな国家体制を、頼朝がどう自覚していたかを示す絶好の史料である、と私は論文で強調した。

 しかし、何かがおかしかった。ある日、私はふと先の違和感を思い出し、冒頭の頼朝の発言を記録した『玉葉』を精読してみた。すぐに一つの事実が明らかになった。頼朝の発言は間違いなく、平治の乱について述べている、と。

 そして、違和感の正体に気づいた。常識と合わないのだ。頼朝が回顧した平治の乱は、学校のどの先生が語った内容とも、どの本で読んだ内容とも合わない。歴史学では普通、後世に過去を回顧した著作をあまり信用しない。頼朝の発言は、平治の乱から31年も後のものだ。ならば信用できないか。そうではない。頼朝は13歳の時、父義朝に従って平治の乱を戦った。どれほど時を経ても、乱の当事者だった以上、頼朝の証言には超一級の信憑性を認めてよい。

 それにもかかわらず、彼の発言は、これまで平治の乱について語られたどの筋書きとも合わない。そもそも、乱の31年後に頼朝が回顧して証言を残したことに、誰も気づかなかった。

天皇の完全犯罪発覚か
被害者・頼朝の逆襲

 義朝が平治の乱で挙兵したのは利己的な反逆だった、と通説は異口同音にいう。しかし、頼朝の主張は正反対だ。父を落命させ、連坐した頼朝を20年も僻地に押し籠めた〈反逆者〉のレッテルは謀略で、天皇の犯罪を身代わりに押しつけられた無実の罪だ、というのだから。