著名人の例をいくつかあげよう。

 イギリスの詩人パーシー・ビッシュ・シェリー1792~1822)は、自分のドッペルゲンガーが妻メアリ(『フランケンシュタイン』の原作者)を絞め殺そうとするのを目撃した。それからしばらくして、ドッペルゲンガーはまた現れ、「いつまでこんなことをしているんだ」と怒鳴ったという。パーシーの死はその2週間後。ボートの転覆事故による溺死であった。

 フランスの作家ギ・ド・モーパッサン(1850~1893)のドッペルゲンガーは、彼が小説を執筆しているところへ突然入ってきて、続きを口述して消えたという。ただしこの頃のモーパッサンは先天性梅毒が悪化し、痛み止めに多量の麻薬を摂取していたから、幻覚だった可能性が高い。

 アメリカの第16代大統領エイブラハム・リンカーン(1809~1865)は最初の大統領選挙戦の時、鏡の中に2人の自分を見たという。

 イギリスの戦艦ヴィクトリア号の司令長官サー・ジョージ・トライオン海軍中将(1832~1893)は、シリア沖での艦隊訓練中の衝突事故により、戦艦と乗組員357名とともに海の藻屑となった。ちょうどその頃ロンドンでは彼の妻が邸でパーティを催しており、複数の招待客から、軍服姿の彼を今さっき見かけたと言われたという。もちろんその時には、事故を知る者は誰もいなかった。

 先述の例は、ほとんど伝聞である。シェリーがこう言っていた、リンカーンから聞いた、というような。またトライオン提督の場合は単なる幽霊譚とみなしてもいい。

 本人が書き残しているものでないと信じられない? ではその例を引こう。

若きゲーテが目撃した
自分のドッペルゲンガー

書影『新版 中野京子の西洋奇譚』(中央公論新社)『新版 中野京子の西洋奇譚』(中央公論新社)
中野京子 著

 ドイツの作家ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)が自伝『詩と真実』に記しているドッペルゲンガー目撃譚だ。

 若きゲーテは恋人のもとへ馬を走らせていた。すると向こうから明るいグレーの服を着たドッペルゲンガーが馬に乗やって来るではないか。驚いたが、やがてそのことは忘れてしまう。8年後、ゲーテはまた同じ道を、今度は逆方向に馬を走らせていたが、その時忽然と思い出したのは、今の自分があの時のあのドッペルゲンガーと同じ明るいグレーの服を着ていたということだった。

 数々のドッペルゲンガー譚。しかし実際には、幽霊譚と比べてはるかにその数は少ない。なぜだろう? 自分が自分を見る――その衝撃は幽霊を見るのと比べものにならぬほど大きいからではないか。幽霊などよりずっとずっと怖いからではないか……。