「最初は英語もぜんぜんわからなかった」という赤畑がこの環境にすぐに溶け込むことができたのは、職場の友人、インド出身のガナッシュ・ラクシュマンさんの存在が大きい。職場では、それぞれの研究がひと段落したタイミングで一緒に食事をしたり、息抜きをしたりした。休日の土曜には、NIHの隣の研究室の研究者と3人で朝食を食べるのが習慣だった。一緒に野球観戦にも行ったし、旅行もした。

「彼は僕が英語をあまり喋れないことを気にせず接してくれましたし、英語もよく教えてくれました。一番いい思い出になったのは、日本とインドと両方に行ったことですね。2週間、南インドの彼の実家に行って、2週間は僕の広島の実家に来てもらって。お前は日本からアメリカに来てインド人と仲良くなるなんて不思議だろって、ガナッシュがよく言っていました」

互いの故郷を訪ねあうような友人と出会えたことは、赤畑にとって幸運だった。しかし、その関係は長く続かなかった。2006年、NIHでの研究が評価されてシカゴの大学で准教授として研究主宰者(PI:Principal Investigator)の職を得たガナッシュさんがシカゴに引っ越しを決めたばかりのタイミングで、がんが発覚したのだ。

赤畑は、メリーランドから1000キロメートル以上も離れたシカゴの病院に入院したガナッシュさんに何度か電話をかけた。見舞いに行くと話すと、そのたびに「絶対治るから来なくていい」と言われた。ガナッシュさんは医者でもあったから、その言葉を信じていた。ところがある時、「見舞いに来てくれてもいい」と言われて、はるばるシカゴの病室を訪ねた赤畑は、言葉を失った。部屋は暖房で猛烈に暖められていた。そのなかで、抗がん剤治療でがりがりに痩せて、別人のようになったガナッシュさんが横たわっていたのだ。

「がんの患者さんは体温が下がって寒いので、部屋を暖めるんです。彼の様子をひとめ見て、これはもう難しい状態だとわかりました。見舞いに来ないでいいと言っていたのは、自分の姿を見せたくなかったでしょう。でも、さすがに最期は会っておこうと思ったんでしょうね。最後に会えて、本当に良かったです」

この悲しい再会から間もなくして、ガナッシュさんは亡くなった。この別れによって、赤畑の胸のなかに「いずれ、がんのワクチンを作ろう」という強い想いが湧き上がった。

ウイルスの“張りぼて”、「VLP」でワクチン開発

赤畑が注目されるようになったのは、蚊を媒介にする感染症、チクングンヤ熱がきっかけだ。チクングンヤ熱は2005年から翌年にかけて、アフリカのレユニオン島で感染爆発が起こり、インドや欧州、そしてアメリカにも飛び火した。その際、NIHでワクチンを開発することになり、赤畑がその研究を担った。