パチンコ、麻雀、女、酒、タバコを欠かさず、ほぼニート状態の父親。それに母親が共依存するという複雑な家庭環境に育った。14歳のとき、父親が自己破産して失踪。貧しい生活を支えた母親は病に倒れ、半身不随に。苦境のなか、独学で大学に合格、奨学金を得た。そして、兄・成田悠輔がくれた本をきっかけに「起業」を志した。話題の書『14歳のときに教えてほしかった 起業家という冒険』(ダイヤモンド社)の著者・成田修造は、体当たりで起業家の道を歩むようになる。本書は起業を通じた人生の指南書で、何歳からでも組織に頼らず、副業・独立・起業でビジネスを展開するときに必須の内容。これからは会社員であっても、自分で事業をつくれると強い。その思考法とノウハウを全公開する。
※本稿は、『14歳のときに教えてほしかった 起業家という冒険(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

起業家の熱狂の紆余曲折とマネー事情Photo: Adobe Stock

出資を受けて
会社を立ち上げる

東京・新宿のスタバで偶然会った大学1年生の頃からの知人である石田健とボクは、もともとアート作品をオンライン上で売買できるプラットフォームを構想していたのですが、これについては「そのビジネスをやるうえで学生の君たちに強みはあるのか? 大人たちが大きな資本と技術力でやってきたら勝てないのでは?」という懐疑的な意見がありました。

その一方で、「アートの領域は普通は儲かりにくいけれど、誰もやっていないから、勝てたら1社総どりになる」という好評価ももらうことができ、「アートで勝負するなら、少額から投資するよ」と言われたのです。

「シードアクセラレーター」という存在

それが、さまざまなスタートアップの立ち上げ期に絞って支援する「シードアクセラレーター」として知られていたサムライインキュベートの榊原健太郎さんでした。

そうして僕らの会社はサムライインキュベートから出資を受け、会社を立ち上げることができました。会社とサービス名は、「アートコレクション」の略で「アトコレ」です。

広告ビジネスと課金ビジネス

アトコレを立ち上げてから、僕らはまずアートに関するメディアとコミュニティからつくろうと考えていました。

具体的には、美術館の展示情報や雑学をまとめたメディアと、自分の好きなアートを共有して楽しめるコミュニティをつくって広告ビジネスで収益を稼ぎ、そのあとはコミュニティを強化しながらユーザー課金型ビジネスなどを模索する計画でした。

よさそうなアイデアが浮かんだとはいえ、僕も石田もエンジニアではなく、サービスの開発はできません。そこで、石田の後輩の河合真吾という人材に声をかけて、エンジニアとしてアトコレに入ってもらうようにお願いしました。

1年ほどでサービス立ち上げ

実は、河合はエンジニアのスキルがあったわけではなく、勉強してもらう必要がありました。

僕らのビジネスアイデアや、エンジニアになるメリットを彼に伝えたところ、賛同してくれ、共同創業者として入ってもらったという形です。

その後、河合は半年から1年ほど必死に勉強をしてくれて、サービスの立ち上げまでもっていくことができました。

4人目の共同経営者

すさまじい成長と活躍を見せてくれた彼の存在なくして、アトコレを立ち上げることは不可能でした。

そして最後に4人目の共同創業者として、中川綾太郎が入ってくれました。彼は石田の大学の友人で、大学1年のときから仲がよかったようです。

中川は学生起業の経験者で、僕と知り合った頃はオンラインでイベントのチケットを購入できるサービスを企画していたのですが、それを1人で続けていくかどうかで迷っている最中でした。

そこでアトコレについて伝えたところ、「みんなでやったほうが面白い会社がつくれる」と意気投合し、一緒にやることになりました。

精鋭ぞろいのすごいメンバー

中川はインターネット時代の申し子といった感じで、普通の枠組みにとらわれない自由な発想力と人を惹きつけるオーラがあります。

彼はのちに河合とともにスタートアップを創業して大手IT企業に会社を売却し、連続起業家となるのですが、その才能を学生時代から発揮していました。

石田も、ニュース解説メディア『The HEADLINE』を立ち上げ、コメンテーターとしてTBS系『サンデージャポン』などに出演しています。

このような4人が集まったアトコレは、精鋭ぞろいのすごいメンバーだったと思います。

起業という名の青春

彼らと過ごした日々は、まさに青春でした。

当時、僕らはネット広告のボヤージュグループ(現・電通グループ傘下のCARTA HOLDINGS〈カルタホールディングス〉)のコワーキングスペースを間借りしていたのですが、あそこで中川と夜遅くまで毎日議論していた熱い日々は、今でも鮮明に思い出せます。

夜は300円の牛丼かスーパーで安く仕入れた材料でつくった鍋料理という生活で、中川が住んでいたシェアハウスに泊まることもよくありました。

情熱を燃やす熱狂の日々

僕ら全員、本当にお金がなかったので、電気代の支払いが滞った結果、朝のシャワーが水になっていて「うぎゃー!」と絶叫したこともあります。

それくらい熱狂(?)しながら、会社の成功に情熱を燃やして頑張っていました。

※本稿は、『14歳のときに教えてほしかった 起業家という冒険』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。