「借りもの」あるいは「仮のもの」

【お寺の掲示板123】自分を苦しめている2つのものを知る超覚寺(広島) 投稿者:chokakuji [2023年7月16日] 

  続いては「彼岸寺賞」受賞作品をご紹介します。この「すべてかりもの」は、「お寺の掲示板大賞」一番の常連投稿者でもある広島市中区にある超覚寺の作品で、117回目の連載でもご紹介させていただきました。「彼岸寺」からの講評は以下の通りです。

 この言葉について超覚寺さんは「いずれかえすもの」とコメントをつけておられますので、「かりもの」とは「借り物」であり、「私のもの」という執着から離れるための法語と味わえます。しかし、「かりもの」を「仮(の)もの」と読むとどうでしょう。また違ったとらえ方ができそうな、そんな妙がある言葉です。

 どんな人でも多かれ少なかれ「私のもの」という執着を持ちながら生活を送っています。この「私のもの」という感覚が苦しみやトラブルを引き起こすため、それとどのように向き合うかが人生の中で非常に重要になります。

 仏道をならうというは、自己をならうなり
 自己をならうというは、自己を忘るるなり

 曹洞宗の開祖、道元禅師の大変有名な言葉です。仏道を習うというのは、つまり「自己を忘れる」ことだとおっしゃっておられます。この「自己を忘れる」とは、「自分のもの」という感覚にしがみ付きながら日常を生きている私たちの姿勢とは真逆のものだと言えます。

 もちろん、「自分のもの」という感覚を完全に忘れることは不可能です。しかし、それに執着している自分自身の姿を冷静に見つめ、省みることは私たちにも可能です。

 すべてかりもの。この非常に短い一言は、「自分のもの」という執着に完全に凝り固まった私たちに対して冷水を浴びせる箴言(しんげん)なのかもしれません。