陸軍の「左巻きネジ」海軍の「右巻きネジ」 

 送り込まれた第35軍は大敗北を喫する。案の定、ルソン島からレイテ島への兵員・物資は輸送途上、敵航空機などの攻撃でやられ、中には、兵は到着したが武器弾薬や食料を失い、丸裸で前線に送り込まれた部隊もあった。彼らは航空機による援護もなく、負けるべくして負けたのである。レイテ島に無謀に上陸させられた日本陸軍9万名のうち、7万9000人余りの将兵が命を失った。

 海軍はなぜ、「敵健在」情報を陸軍に隠したのか。

 自分を守り、その場を繕いたい。その一心であったというのは少し言い過ぎかもしれない。おそらくは、「海軍」という組織を守りたかったのであろう。

 うそのような本当の話だが、当時の軍需工場では、同じ敷地の中に「陸軍用」と「海軍用」の工場が別々に建っていて、門まで別になっていた。そして、陸軍が「左巻きネジ」を作ると海軍は「右巻きネジ」にして、部品を融通し合うことはなかった。部品だけではなく、原材料も、人員も融通しない。陸海軍は予算を奪い合うライバルであって、戦局の最終盤にならなければまともな協働は見られなかった。

 そんな中で、海軍は自分の「大戦果」を「いまさら『なかった』とは言えない」ということになったのである。

 問題はさらに根深い。戦果が過大だと気付いた海軍内部の検討会議。ここに参加していた航空参謀が戦後、どんな話があったのかを尋ねられると「記憶にない」と答えている。

 なぜ「記憶にない」が根深い問題なのかと言えば、会議の中身がわからなければ、どうして海軍は修正した情報を陸軍に伝えなかったのか、という経緯がわからないからである。この反省がなければ、同じ過ちを繰り返す。

 本当に忘れたのかどうか、それは本人にしかわかるまい。しかし戦後、会議に参加した海軍の人間が一般に公表したもの(手記や著作)には、ほとんどそのことが触れられていない。(例えば連合艦隊航空参謀だった淵田美津雄ほかの著作『機動部隊』など)。
 
 当時、連合艦隊司令長官であった豊田副武の口述記録『最後の帝国海軍』でも、陸軍に報告しなかった件は1行も触れず、戦果については「現地報告はうのみにはしていなかった」など自己正当化までしている始末である。

 もちろん、陸軍が正しいとは言わない。淵田美津雄が主張するように、陸軍はガダルカナル戦やサイパン戦で航空兵力を出し惜しみしたことは事実である。しかし、だからといって海軍に正確な戦果の情報を渡さないという理由にはならない。結局、「いまさら言えない」ということであったのだろう。