寺島がどのようにして「ルフィ」の手下になったのかを知る前に、マスコミからの突然の電話を“とっさにかわした”寺島の両親と生家に俄然興味があった。出遅れを挽回するために、筆者はすぐに長野に飛んだ。

名門女子高隣の
「名家」に育った寺島

 長野新幹線の長野駅からタクシーで10分ほど、長野市内の北東部に住宅が広がっている。高校や大学なども点在し、戸建て住宅やアパートが並んでいる。東京郊外に広がるニュータウンを想起させるが、近くに北アルプスがそびえている。

 筆者を乗せたタクシーは小さな路地の入り口で止まった。近隣の高校から部活のかけ声だろうか、女子生徒の甲高い声が聞こえてくる。運転手が「長野ではもっとも歴史ある私立の女子高ですよ」と声の方向を指さし教えてくれる。

「寺島の実家」はその女子高のほぼ脇と言っていい場所にあった。2階建ての年季が入ったその住宅は、地域にすっかり溶け込んでいる。寺島の両親の世代よりも、もっと前からこの場所に立っているのではないだろうか。

 インターフォンを鳴らすが応答はない。日中にもかかわらずカーテンを閉め切っていることからも、居留守の可能性が高いだろう。

 しかし、最初の電話でのやり取りを考えても、万が一、家族と接触できたとしても、有力な情報を引き出すことは期待薄だ。近隣を回ってみることにした。

 寺島が育った環境はすぐに理解することができた。地元で寺島家は「名家」だった。古くから寺島家と交流があるという地元の住民が筆者の来訪に、疎ましそうにしながらも答えてくれた。

「あんたマスコミか?またかよ。あんな大きな事件に関わってたんだから、仕事しなければいけないのはわかるけど、あの家のことだけはあんまり悪く書かないであげてよ」

 思わぬ反応に首を傾げていると、住民は言葉を継いだ。

「寺島さんは春奈のおじいさんの代からここにいるんだけど、本当に素晴らしい人で、このへんの人間はみんな世話になってるんだ。すぐそこに高校があるだろう。おじいさんはそこで美術教師をやっててね。教育者というのはこういう人を言うのか、ってぐらい素晴らしい人だった」

 寺島の祖父はすでに亡くなっているというが、近所で困っている人がいればボランティアで顔を出すなど、地元住民のために尽力した人だった。さらには寺島の祖父に家庭や子育ての相談を持ちかける人も多く、そのたびに嫌な顔ひとつせず丁寧に接していたという。それを象徴するように、生前には玄関先に日本赤十字社のマークが入った表札が掛けられていた。多額の寄付をしていたのだろう。話を聞く限り、非の打ちどころのない地元の名士だった。