いろんな現象の構築性を批判するのはいい。でも批判のあとには、どこか虚しさが残る。男らしさも、日本人らしさも、社会的に、歴史的に、構築されてきたのはわかった。あらたな概念がつくられると、ぼくらの感覚や物の見方もがらっと変わってしまう。それもいい。で、じゃあどうしたらいいの?そんな疑問が浮かぶ。

 そう言って彼は、これまで多くの構築主義者が囚われてきた「構築されている(だからそんなものに正当性はない!)」という批判一辺倒の態度から、「どこをどうやったら構築しなおせるのか?」という問いに向き合う姿勢への転換が、構築人類学の方向性なのだと主張している。そして、フィールドワークという手法をとる人類学者の思考がどうしても身近な「社会」の範囲内に留まりがちであり、それを越えた「世界」と呼べるような領域を再構築することまで及んでこなかったことを指摘する。

国家権力も市場経済も
個々人の存在があってこそ

 こうした反省をもとに、「世界」を構成する重要な2つのシステム、「国家」と「市場」の問題へと彼は論を進めていく。

 その際も、単なる批判理論としての構築主義ではなく、再構築の手がかりを探る知としての構築主義の立場から、これらのシステムとどのように関わっていくべきかを模索している。彼のこのような主体的な姿勢は、フィールドワーカーとして「社会」の観察に専念することを美徳とする人類学者としては、かなり異色だと言えるかも知れない。

 これまで人類学は、西洋近代の国民国家や市場経済といった巨大な力を批判してきた。でも、「わたし」という存在から切り離された力を批判するだけの時代は終わりつつある。「わたし」が行為している、その同じ地平で国家や市場といった「世界」が同時に生成している。「世界」は「社会」を越えた先にあるのではなく、そのすぐ横にある。