松村は、我々が「国家権力」や「市場原理」といった言葉に惑わされて、こうしたシステムが上からの暴力的な支配というよりはむしろ、自分たちの主体的な行為の中で現実化している事実を忘却しがちだと警鐘を鳴らす。そして、人々に息苦しさを感じさせている「国家」や「市場」の常識的な線引きを疑い、その線の引き方をずらすことによって、「国家」や「市場」と「わたし」との間にスキマ、つまり自律的な「社会」を作り出すことを目指すことが、構築人類学の歩むべき道なのだという。

自律的な「社会」を作ることは
「世界」の再構築と呼べるのか

 こうした松村の主張は概ねうなずけるものだが、自律的な「社会」を作ることは果たして「世界」の再構築と呼ぶのにふさわしいのだろうか。

書影『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』(ミネルヴァ書房)
中島啓勝 著

 ちなみに、彼は線の引き方をずらす実践例として、「個人が自分のできる範囲で、国家の責任とされる再分配を引き受ける」ことや「市場の壁を越えて生産者と消費者とのつながりをつくりだす」ことを挙げているのだが、彼が考える自律的な「社会」像は、市民が政府や企業の活動に回収されない独自の活動領域を持つべきだという、いわゆる市民社会論の範囲を出るものではないように見える。

 もしこの見立てが正しいのだとすると、スキマとしての「社会」を構想するだけでは「世界」に公平さを回復するのは不十分だということになる。従来の市民社会論が無駄だったとは言わないまでも、衰えていく一方に見える我々の公共心を育むには、明らかに力不足の感が否めないからだ。むしろ、「社会」と「世界」を隔てていた線を薄く、しかし太く引き直すことによって、「社会」と「世界」が重なり合うような領域を作り出すという方が、現代的な課題にふさわしい比喩なのではないだろうか。