彼女が社会から孤立している理由は彼女だけの選択の結果ではない。自分も含め、彼女の姿を視線の隅に捉えながらも「関わらない」という選択をした多くの人々が、一緒になってその現実を作り出しているのだ。彼はそう言って、日本社会のあり方に疑問を投げかける。

「おかしな」人の問題だけではない。世界で最も貧しい国の一つであるエチオピアを訪れると、どうしようもない格差を突きつけられることになる。日本国内にも格差は間違いなく存在するが、それは巧妙に覆い隠されている。ホームレスや独居老人、障害に苦しむ人々は、できるだけ人目につかない場所に追いやられ、街はなるべく「きれい」に保たれてしまう。しかし、エチオピアではそうはいかない。我々の多くが当たり前のように享受している健康や豊かさなどの全てが、「うしろめたさ」を喚起する原因となるのだ。

現代社会への批判にとどまらず
新社会を構築する理論に

 松村は、こうした「うしろめたさ」という自責の感情を、公平さを取り戻そうとする倫理的行為につなげるのが、人類学、特に彼の提唱する構築人類学の使命なのだと考えているのだが、ここで注目すべきなのは、構築人類学を支える構築主義という考え方に対する彼のスタンスである。

 ここで言う構築主義とは、社会におけるあらゆることは固定的な本質を持たず、様々な作用の中で構築されてきたものだと考える立場のことである。「男らしさ」「女らしさ」といった、ジェンダーに関する議論がその代表的な例として挙げられるだろう。構築主義の考え方は、人類学をはじめとする人文社会科学においては、もはや常識となっている。

 松村は、こうした視点が既存の秩序や体制を批判する上で有効だったため、構築主義が批判理論の1つとされてきたことに触れつつ、次のように述べている。

 カナダの哲学者であるイアン・ハッキングは、構築主義者の多くが社会の現状に批判的なので、(1)Xのあり方には必然性がない→(2)Xは悪い→(3)Xを排除すればましになる、といった論理構成をとる、と指摘する。