「こんなはずじゃなかった」
望まぬ異動・キャリアの挫折の乗り越え方は?

 さて、今度はビジネスパーソンのキャリアの挫折の話です。

 会社の人事は、自分の思い通りにはなりません。昇進はもちろん、配属先の部署だって希望通りにはならないのは当たり前。

 ましてや、大きな失敗をしでかしてペナルティを受けたとか、自分に十分な実力がなくて成果が上げられずに出世できなかったというのは挫折でも何でもありません。目の前のことに一生懸命取り組まなかった結果です。

 私自身の話をしましょう。

 私のビジネスパーソンとしてのキャリアは銀行員からスタートしました。入行4年目に銀行から派遣されアメリカに留学し、ビジネススクールで2年間勉強してMBAを取得。帰国後は営業を希望していたのですが、配属されたのはシステム部でした。

 当時の私は、多くの他の行員同様、システム部は目立ちづらい “縁の下の力持ち”のような存在の仕事だと思っていたのですが、銀行の経営陣は早くからシステムの重要性に気づいていて、毎年留学した行員5人のうち1人を必ずシステム部に配属していました。

 それを嫌だという先輩もいました。せっかく留学してMBAを取得したのだから営業や市場部門などのエリートコースを歩ませてほしいと不満を漏らしていました。

 でも私は割と運命を受け入れるタイプなので、システム部に異動した後、情報処理技術者試験を受けて、当時最も難関な資格といわれていた「特種情報処理技術者」に合格しました。

 銀行のシステム部で働いていた人は200人ほどいましたが、この資格は誰も持っていなかった。プログラミングはほとんど外注だったのでIBMや富士通などから1000人近いプログラマーが出向していましたが、その中でも1人くらいしか持ってなかったと思います。

 私はやるならとことんやる方がいいと考えて資格を取得したのですが、ある人からは「そんな資格を持っていたら一生システム部だよ」とアドバイスされました。

 その人の目には、私のキャリアが挫折したように映ったのかもしれません。でも、私はシステム部で働くうちにこれから間違いなくシステムを活用する時代が来ると考えるようになりました。現在では日本の銀行でもシステムを経験した頭取は少なくありません。また、与えられたことが運命なので、それに全力で取り組むことが自分らしいとも考えていました。

 さて、私は33歳の時、外務省をお辞めになった岡本行夫さんが立ち上げたコンサルタント会社「岡本アソシエイツ」に転職しました。

 その後、介護サービス事業を営むセントケア(当時日本福祉サービス)に移りました。そのころの在宅介護はメジャーな業種ではなかったためか、周囲の人から「キャリアダウンした」「挫折した」と言われたこともありましたが、そんなことはなく、在宅介護の会社では、銀行ともコンサルタント会社とも違う経験を積むことができ、1996年に小宮コンサルタンツを設立して現在に至ります。

 先のことは誰にも分からないのですから、十分な実力を持つ人でも希望のポジションに就けないとか部署に行けないということは当然あるわけです。その時は運命だと思って、前向きに今いるところで全力を尽くす。その姿は必ず上司や周りが見ていますし、そのほうが間違いなく実力が上がります。

 それでも社内政治だけで人事が決まるような会社だったら、実力主義の会社に転職すればいいのです。今いる場所で実力を蓄えて、外部でも十分に通用する能力を身につけることが重要です。

(小宮コンサルタンツ代表 小宮一慶)