同時に、竹下先生が青木さんという秘書に、いかに大きな信頼を寄せているかを感じました。その点、田中先生は不幸でしたね。

 私自身も、かつては中川一郎先生の秘書を務めましたが、中川先生は常々、「政治家と秘書の関係は、夫婦みたいなもんだ」と言っていました。

 ロッキード事件で田中先生が逮捕されたとき、中川先生が記者会見で、「俺は田中先生のようにはならない。俺に何かあったら鈴木が全部責任をとってくれる」と言い放ったんです。私はもう寒気がして、鳥肌が立ちましたね。「この人のために、間違いは起こせない」と強く感じました。

「女房と別れても、鈴木とは別れない」とも言ってくれました。田中先生にも、心の底から信頼できる秘書がいれば、あんなことにはならなかったはずですよ。

―― 鈴木さんは、初当選の後10年間は無派閥で、93年に「経世会」に加入されました。派閥に入ったきっかけは何だったのでしょうか?

 私が初当選したのは83年ですが、当時は金丸先生がキングメーカーとして1人で自民党を動かしていました。中曽根、竹下、宇野、海部、宮沢、この5人の総理を生んだのは金丸先生です。その金丸先生が私に目をかけてくれていましたから、私は派閥に入る必要がなかったんです。

大物政治家「カネ配り」の衝撃実態、鈴木宗男が明かすキングメーカーの実像とは?連載:「派閥とカネ」に登場する大物政治家たち Photo by Wataru Mukai

 派閥に入ることになったきっかけは、金丸先生の言葉です。竹下政権のとき、金丸先生は、竹下さんの後は藤波(孝生)だと考えていました。それで、「鈴木、俺の目の黒いうちは俺が責任持ってお前の面倒見るけども、俺もいつまでも元気ではいられない。竹下の後は藤波だから、お前は藤波のグループにも入っておけ」と言われて、91(平成3)年に「新生クラブ」という政策集団に加わりました。そして93(平成4)年に、経世会の流れをくむ平成研(小渕派)に入るんですよ。

――鈴木さんが派閥に入って感じたメリットは何ですか?