賄賂政治家に接近し
金権政治の真っ只中へ

 そもそも水野家による唐津の統治は、忠邦が当主に就く前から波乱に満ちていた。1762年の入封時に、すでに大坂商人などからの借金が累積6万両もあった。1両を12万円として、72億円にのぼる。

「もはや借出すべき道筋もことごとく塞(ふさ)ぐ」、つまりもう貸してくれる先もないと、『水野家文書』は記す。

※現在の価値への換算は『江戸のお勘定』(大石学監修/MdN新書)を参照。

「天保の改革」水野忠邦の異常な出世欲、嫌われた老中の「カネにまみれた本性」とは?水野家が省庁を置いた唐津城は玄界灘の南にあり、外国船の来航に備える海防を担った城だった Photo:PIXTA

 そこで年貢収奪の強化をはかったが農民の反発を招き、1771(明和8)年に「虹の松原一揆」が起きた。「虹の松原」と呼ばれる美しい松原に唐津藩の農民たちが集結し、新たな税制の撤回を求めたものだ。

 武力衝突こそ免れたものの、水野家は強化策を撤回せざるを得なかった。

 忠邦が藩主となったのはこの一揆の50年後。農民には水野との軋轢が、まだ尾を引いていた頃だったろう。だが、忠邦は農民の窮乏を目の当たりにしたこともなく、出世欲に満ちていた。反抗的な民がいる唐津藩主の座など、何としても捨てたかった。

 藩主就任3年後、忠邦は奏者番(そうじゃばん/江戸城で武家の礼式を管理する役職)に任じられた。奏者番は出世の登竜門である。「青雲の要路」の足がかりをつかんだ。

 そこで、歴代城主の多くが幕府重鎮に昇進することから「出世城」といわれる浜松藩への転封を願い出た。頼りにしたのは、幕府重鎮・水野忠成(ただあきら)だった。

 この水野忠成はもともと「岡野」という姓の旗本だったが、養子として入った家が沼津藩水野家という忠邦の同族であり、しかも11代将軍・家斉の側近という実力者だった。

 そして、賄賂を受け取る幕閣としても有名だった。カネ次第で便宜を図ってもらえる――そう踏んだ忠邦は、多額の金品を忠成に贈った。

 賄賂の原資捻出を余儀なくされた家臣たちは猛反対したが、忠邦は聞く耳を持たず断行。その甲斐あって、ついに1817(文化14)年、奏者番から寺社奉行へ昇進するとともに、唐津から浜松への転封も勝ち取った。浜松への“引っ越し”費用も多額だった。