国へはカネの無心ばかり
「金食い虫」の殿様
浜松藩政の記録『浜松告稟録』(はままつ・こくりんこく)には、忠成の接待にどれだけの費用を要したかが記されている。1度の饗応に50~60両、贈り物は隔月で20~30両。半年で446両。これらはすべて藩が工面した。
国許に無理を強いているのは忠邦も承知していたらしく、1831(天保2)年には、国から江戸藩邸への年間送金額を7000両から5000両に削減している。だが、“金食い虫”忠邦に長続きするはずもない。同年秋には早々に撤回した。
財政は枯渇し、藩邸に物品を納める商人への支払いすらできない事態となった。忠邦は「これでは本丸老中になれない」と泣き落としにかかるも、浜松は疲弊するばかりだった。負担を担う領民に対する配慮も、頭になかった。
折しも飢饉が襲った。浜松の村に伝わる文献『高林家諸用記』には、1835~1840(天保6~11)年の間に5回の飢饉があり、一揆寸前の騒動も起きていた。
事態を憂慮した忠邦が、農民が武装蜂起した際には「玉込鉄砲等相用」、つまり銃を使って鎮圧しても良いかと幕府に伺いを立てたことも、彼の日記からわかっている。幸い暴動には至らなかったが、浜松藩の苛政が読み取れる。
老中首座をクビ→再任→辞職
最後は強制隠居・謹慎
浜松が混乱を極めようとしていた1834(天保5)年、これまで賄賂を贈り続けてきた忠成が死去。あとを受けて忠邦が本丸老中となり、1939(同10)年には老中首座となった。ついに幕政のトップに踊り出たのだ。
しかし、大塩平八郎の乱(1937/天保8)年、言論弾圧事件「蛮社の獄」(1839/同10)年が起きるなど、社会は不安定だった。忠邦はそうした状況下で農村復興や風紀取り締まり、物価安定などを柱とした「天保の改革」を断行したが反感を買う。
そして1843(天保14)年、江戸・大坂近隣の大名・旗本の領地を召し上げる「上知令」を発令すると、これが大反発をくらい、改革をともに進めてきた配下の鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)にも裏切られ、老中を罷免された。こうして天保の改革は失敗に終わった。
忠邦の屋敷を大勢の町人たちが囲み、投石する事件も起きたという。ここまで忌み嫌われた老中も珍しかった。
その後、後任の老中首座・土井利位(としつら)が不興を買ったことを受けて、忠邦はまさかの再任を果たすも、体調不良などもあってわずか半年で辞職した。