転封に際して、忠邦は「唐津には余剰地がある」と申告し、約1万7000石を幕府に上知した。上知とは本来、幕府が領地を召し上げることを指すが、ここでは進んで献上したという意味を持つ。自身の評価を上げるための領地の切り売りで、藩の規模は縮小した。

 忠邦を諌(いさ)めようとした城代・二本松大炊(にほんまつ・おおい)が、抗議の意味を込めて自決したという話もある。ただし、大炊の死は史料には見当たらず、後世に生まれた俗説とも考えられるため、ここでは詳しく触れない。

 しかしその並外れた出世欲が巻き起こす諸問題は、家臣にとって「以後もついて回る疫病神のようなもの」と、日本近世史研究家の藤田覚は指摘している。

 1818(文政元)年、水野忠成が老中に就くと、忠邦はその腹心として野心をさらに増大させていく。

大坂城代と
京都所司代を歴任

 1825(文政8)年、忠邦は大坂城代に就任した。大坂城代には、摂津・河内・播磨から役知(要職を担っている役人に与える特別な領地)として1万5000石が与えられた。役職手当のようなものだが、忠邦は大坂の領地を得る代わりに、実は浜松の領地1万5000石を差し出して(上知して)いた。しかも、この役知1万5000石を、新たな借金の担保にしたという話もある。

 忠邦の評判は、大坂の商人にすこぶる悪かった。権威を笠にカネをむしり取るのだから当然である。商人たちは裏で「狐と同じ姦人(かんじん/腹黒くずる賢い人物)」と評しており、貸しても返済されることはないと知っていたが、しぶしぶ融資に応じるしかなかったのである。

 それでも忠邦は1826(文政9)年、遠国役職の最高位である京都所司代に栄転。今度は公家に取り入り、有識故実(朝廷や武家におけるならわし・しきたり)をまとめた『朝儀部類』16冊を編纂し、朝廷に献上した。編纂費用はこれまた莫大だったが、時の光格上皇は忠邦を気に入ったという。

「天保の改革」水野忠邦の異常な出世欲、嫌われた老中の「カネにまみれた本性」とは?忠邦の直筆書状。流麗な筆は文化的素養を備えていたことをうかがわせる。『水野越前 偉人史叢第15巻』(明治30年)より 国立国会図書館所蔵

 1828(文政11)年、ついに念願かなって江戸城の「西の丸老中」に就任。西の丸老中は大御所(将軍の父親)や将軍の子らの家政(衣食住全般)を総括する役職だが、直接幕政に関与する本丸老中とは異なる。確かに要職を得たものの、出世ルートとしては道半ばであり、西の丸から本丸へ進めるとも限らない。忠邦はさらに水野忠成の接待に励んでいく。