漢字とGHQ
漢字は日本統治のために制限された

写真おふたり

宮崎 思考の自在性、思考の自由を取り戻したいからです。その前提として、語彙の多様性や複雑性があります。

 逆は「平板化」「均一化」です。平易な言葉しか使わないということになると、同じ言葉を繰り返し用いることになります。言葉というものの表現力が衰退し、衰微(すいび)してしまう。

 そうなると、単に言葉というよりも、思考や感覚、情緒が摩滅し、幼稚なものになっていく。言葉だけでなく話す内容も衰え、幼稚化してしまうんです。

田原 考えてみれば、戦前の新聞や雑誌は上級語彙だらけですよね。

宮崎 でも、多くの語にはルビが振られていました。いずれにせよこのままでは、夏目漱石も西田幾多郎(にしだ・きたろう)も津田左右吉(つだ・そうきち)も、早晩、読めなくなるでしょう。

 例えば、かつて「世論(せろん)」と「輿論(よろん)」は別の語だったのです。「世論」というのは、一時の大衆感情の表出(ポピュラー・センチメンツ)を意味し、「輿論」は、国民の熟議を経て形成された公論(パブリック・オピニオン)を意味したんです。徳富蘇峰(とくとみ・そほう)なんかもそういう風に使い分けています。

 ところが終戦直後、漢字制限(※)がはじまり、当用漢字表が公示され、「輿論」の「輿」という字が使えなくなったのです。苦肉の策として「世論」を「よろん」とも読ませることになった。ところがこのことで、かつてあった「せろん」と「よろん」の区別はあいまいになり、事実上、「輿論」がその意味もろとも消失してしまった。もし「輿論」がそのまま使われていれば、戦後、民主主義がポピュリズムに走ることを食い止められたと思いますね。少なくとも一定の歯止めにはなったはずです。
※学習負担の軽減や印刷通信の効率化などを目的として、日常使用する漢字をある範囲に限定すること。字の種類を制限した上、各字の音訓についても制限が行なわれる。昭和21年(1946)の当用漢字表や、その音訓表、同56年の常用漢字表は、政府によるその具体策。(小学館 日本国語大辞典より)

 他方、官僚や法曹の世界では、平気で上級語を多用しています。法廷で「然るべく」という耳慣れない言葉が日常語みたいに使われていることがありますが、「裁判所にお任せします」という意味なのです。これ、日常的に「然るべき」(=適切な)という表現を使い慣れ、語感をつかんでいないと、まったく理解できないやり取りでしょう(笑)。

 こういう「語彙力格差」も問題ですが、もっと深刻なのは、さっき「漢字を読めない」宰相の例で示したように、政界や財界のトップの語彙水準が落ちているということです、

田原 政治家は教養人になれということですか。

宮崎 政府のトップともなれば、文教行政も差配するわけですから、常識として言葉遣いぐらいはしっかりしたものであってほしいと。作家の水村美苗さんが、国語教育についてこう述べています。

「悪い為政者は、<読まれるべき言葉>をいっさい読まさずに、訓蒙(くんもう)教育の美名のもとに、愚民教育を与えることができる。しかし、愚民教育を与えるのは悪い為政者だけではない。善意の塊となり、すべての国民が読み書きできるようにと、<読まれるべき言葉>が少しでも困難だといって読まずにいれば、結果的に愚民教育を与えるのと同じことになる」
(『増補 日本語が亡びるとき』ちくま文庫 p.335)

 カーネギーメロン大学言語技術研究所の分析によると、アメリカのトランプ元大統領がスピーチで用いる文法は、小学校5〜6年生レベル、語彙は、中学2年生以下のレベルだそうです。大衆の感情(ポピュラー・センチメンツ)をやたら刺激する「平明な言葉」を繰り返し、有権者にうけてきました。しかしあれでいいのか、と。

 実はトランプさんは教養豊かで、立派な言葉を操れる人なのかもしれません。ただ、有権者に語りかけるときには、わざと言葉の水準を落として話す。そして、その平明かつ野卑な言葉が大衆にうけた。「トランピズム」の台頭を嘆くインテリは数多(あまた)いるけれど、これを言語教育の問題と捉える人はほとんどいません。

おふたり

田原 アメリカは移民が多い。それに高等教育を受けられない人も大勢いる。そこに合わせているのでしょうか。

宮崎 市民権を持っていない移民第一世代は投票できません。ただ、高等教育から取り残された人でも、選挙人登録(※)することができますから、そこへの訴求を狙っているのかもしれません。
※アメリカでは投票する前に有権者登録が必要であり、登録しないと投票資格が生じない

 日本でも、複雑な事柄をすんなり説明したり、微妙な事態を一言で表現したりできる語彙を持ち合わせていない人が大量に出現したら、基本的に「言葉に基づいて運営される制度」である民主制は、機能不全に陥ると思います。

田原 平易・平明な言葉ばかり使っていると、それを使う人間の文化水準も劣化していくと。

宮崎 そう思います。文明国であれば、延(ひ)いてはどんな国、社会であっても、そこで使われる言語は進化し、高度になっていくのが通性(つうせい)ですから、いまの日本の状況はこの自然の流れに逆行しています。政策によって逆行させられているといえますね。

 告白しますと、言葉について啓発したいと思って『教養としての上級語彙』を書き始めたものの、書きながらも、自分が「本当は」何をしたいのかがわからなくなるようなところがありました。まあ、最初はハイレベルな日本語の語彙増強本のつもりだったので、それでもよかったのですが……。

 続編の『教養としての上級語彙2』を書いてみて、ようやく自分が主張したかったことがはっきりした、という感じですねえ。つまり、「言葉はとにかく平易・平明でなければならない」という強迫観念や同調圧力の正体や、それに対する自分自身のモヤモヤ、違和感、反発の根拠を言い当てたかったのだ、と気づいたんです。

『教養としての上級語彙2』では、平易な言葉を求める風潮は、明治維新や、第二次世界大戦の敗戦時の欧米コンプレックスから生まれたものであること、そして、言葉はコミュニケーションの道具ではなく、概念そのものであり、存在そのものなのだから、現在あるかたちを無理に均(なら)して平板にするべきではない、ということを書いています。

田原 平易な言葉を求める風潮は、欧米コンプレックスから生まれた、と。

宮崎 GHQ(連合国軍総司令部)は、漢字使用の制限に棹差(さおさ)しました。GHQのCIE(民間情報教育局)は当初、日本語の文字を、全面的に「ローマ字表記」にする方針だったのです。タイプライターで打てるようにしろと。

田原 そうだったのですか。

宮崎 いやホントに、ローマ字化論の根拠になった「アメリカ教育使節団報告書」にそう書いてあるのです。さらに、「漢字の使用が、民主化を進めるための阻害因となっている。民主主義的市民を育成し、国際的な相互理解を深めるには、なんとしてもローマ字の国字採用が必須だ」ともあります。当時のアメリカのメディアも、「ローマ字化によって、日本人も少しは物事を考えるようになるだろう」(ニューズウィーク)なとど言い立てていたそうです。

 ところが、部局内に、穏健な知日派との対立があって、ローマ字化を推進する派が退けられ、結局、国語審議会(※国語政策に関する審議会)に圧力をかけて漢字制限を推し進めるところに落ち着きました。

田原 難しい漢字を使うな、我々にもわかるように簡単に書け、と。