OGPベストセラー絵本『100万回生きたねこ』は現代の仏教説話だ Photo by Naoya Sato

ジャーナリストの田原総一朗氏が、評論家の宮崎哲弥氏と「言葉」について対談。なぜいま、平易な言葉遣いばかりが求められるのか、なぜ「上級語彙」を残す必要があるのか、そしてなぜGHQは日常使用する漢字を制限したのか――。こうした日本語の表記をめぐる問題から、日本仏教はいつから「修行して悟る」から「念仏を唱えれば救われる」へと変わったのかといった現代日本における仏教受容のあり方、そして、絵本『100万回生きたねこ』が日本や中国で驚異的に売れ続けている理由にまで話題は及んだ。その議論の模様をお伝えする。(文/奥田由意、編集/ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光、撮影/佐藤直也) 

平易な言葉しか使わなくなると
話す内容も衰えていく

田原さん田原総一朗(たはら・そういちろう)
1934年、滋賀県生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、岩波映画製作所や東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て、1977年からフリー。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」などでテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ「ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)」受賞。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。近著に『さらば総理』(朝日新聞出版)、『人生は天国か、それとも地獄か』(佐藤優氏との共著、白秋社)、『全身ジャーナリスト』(集英社)など。2023年1月、YouTube「田原総一朗チャンネル」を開設。

田原 宮崎さんとは、長い付き合いですが、宮崎さんが書かれるものには、いつも大変信頼を寄せています。

宮崎 ありがとうございます。

田原 『教養としての上級語彙』と、新著の『教養としての上級語彙2』も興味深く拝読しました。なぜ「語彙(ごい)」、とりわけ上級をテーマとされたのですか。

宮崎 中級以下の語彙を扱っている本は、今までにも立派なものが上木(じょうぼく)されていて、ときとしてベストセラーになっています。しかし、上級語彙、「advanced vocabulary」に特化した本というのはありませんでした。

 そもそも上級語は、日常生活ではあまり使われず、学校でもろくに教わらず、読書慣習もすたれつつあるため、ほうっておくと消えてしまいます。このままでは語彙の貧困化は避けられません。

 近年、日本人の語彙力が失われてきていると痛感しています。それはなにも、学生や若年層だけの話ではありません。一定の年齢以上の教育を受け、しかるべき地位にある人や年長者、インテリ層あるいは「上級国民」(笑)の言葉づかいも貧相になっています。

 総理大臣が「云々(うんぬん)」を「でんでん」と読んだり、「未曾有(みぞう)」を「みぞうゆう」と読んだりするなど、笑い話では済まされなくなっています。こうした、世代によらず「語彙力が麻痺(まひ)している」様相を見るにつけ、なぜそうなったのか、そして、われわれが語彙力を再建するにはどうすればいいのかを、考えるようになったのです。

田原 漢字の使用を最小限にして言葉を平易・平明(へいめい)にする風潮がありますね。難しい言葉を使うのをやめようという。

宮崎さん宮崎哲弥(みやざき・てつや)
1962年、福岡県生まれ。評論家。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。テレビ、ラジオ、雑誌などで、政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。著書に『仏教論争――「縁起」から本質を問う』(ちくま新書)、『ごまかさない仏教――仏・法・僧から問い直す』(新潮選書、佐々木閑氏との共著)、『知的唯仏論』(新潮文庫、呉智英氏との共著)、『教養としての上級語彙――知的人生のための500語』(新潮選書)など。近著は『教養としての上級語彙2――日本語を豊かにするための270語』(新潮選書)。「上級語彙は表現をより自由にする」をテーマに、Xにて「宮崎哲弥『教養としての上級語彙1、2』Official」を開始。

宮崎 田原さんも経験されていると思いますが、新聞に評論文を書いたり、テレビで発言したりするときに、ちょっと難しい漢語を使うと、まあ嫌がられますよね(笑)。

 新聞に論評を寄稿したとき「ルビ付きの言葉が多すぎる」と読者に批判されたことがあります。ルビを振らないと読めないような難読語を使うな、というわけです。「なぜわざわざ難しい言葉を使うのか、平易な言葉を使え」と。

 しかし「平易な言語表現」とは何なのでしょうか。「あまり見慣れない漢語や文語的表現の使用を控えること」が「平易な言語表現」なのでしょう。けれど、「わざわざ難しい言葉」を使っているのではなく、著者または話者として、その表現が当該文脈においてもっとも適切で、かつ、簡潔な表現だからこそ使っているのです。

 だが、結局のところ「漢語や文語的表現をできるだけ使うな」ということになるのではないか。こんな風に「易しさ」を強いてくる風潮の根源には何があるのか。今回、続編を出版するに当たって、過去の出来事をいろいろと遡(さかのぼ)って考えました。

田原 以前よりも近年はより「わかりやすさ」が求められているように感じますが、宮崎さんの本はそれに真っ向から反発するものですね。なぜ日本人の語彙力を再建したいのですか?