日本仏教はいつから「修行して悟る」から
「念仏を唱えれば救われる」へと変わったのか?
田原 まさに今日は、そのあたりについてもうかがいたかったんです。以前、『仏教論争』(ちくま新書)という本を書かれましたね。
宮崎 はい。この本は、韓国の仏教哲学界の大御所が訳してくださり、ハングル版が出版されました。韓国のアカデミアでは評価していただいたのですが、日本の仏教学界からはほとんど反響がありませんでした(笑)。
田原 なぜこの本を書こうと思ったのですか。
宮崎 私たち日本人にとって、仏教というのは非常に身近なものです。しかし、仏教は何を説く教えなのかという点については、宗派ごとに驚くほど異なっていて、よくわかりません。
そこで、およそすべての宗派が仏教の説くところだと認める、「縁起」という中核概念をめぐって交わされた近現代の議論を読み直すことで、いままで注目されてこなかった陰の思想史を浮き彫りにしようと目論(もくろ)んだのです。
田原 仏教では、本来は「悟る」必要があるわけですが、悟るというのは非常に難しい。それに、インドから中国へ仏教が伝わった際、悟るということがなくなってしまった。そして中国から日本へ仏教が伝わると、日本の浄土宗や浄土真宗が、仏教をよりわかりやすいものにした。
宮崎 おっしゃるとおりです。インドに発祥した仏教は、ガンダーラからシルクロードを通り、敦煌(とんこう)を経由して、中国に至りました。
中国に伝播(でんぱ)したのは、比較的新しい仏教、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)です。日本でメジャーな漢訳経典(きょうてん)、例えば般若経(はんにゃきょう)とか、華厳経(けごんきょう)とか、法華経(ほけきょう)とか、浄土三部経(じょうどさんぶきょう)や金剛頂経(こんごうちょうきょう)などは、すべて大乗経典です。
こうしたなかで浄土教が生まれます。それは「出家して修行して悟るのではなく、阿弥陀如来の名(名号)をひたすら称(とな)え、『弥陀(みだ)の本願』に乗じれば、往生する(浄土に生まれる)ことができる」と説きました。この中国浄土教の教えを、より先鋭化させたのが、日本の法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)です。
田原 それで日本では、仏教といえば「修行して悟らなくても、念仏を唱えれば救われるのだ」という考えが広まっていった。