「言語=道具観」と「音声中心主義」
2つの錯誤が生んだ日本語廃止論

田原 大きな錯誤とは何でしょうか。

おふたり

宮崎 1つの錯誤は「言語=道具観」。言語は「コミュニケ―ションのツールに過ぎない」という見方です。

 言語はコミュニケーションの手段ではありません。これは、チョムスキーという現在の主流の言語学を創始した学者も認めている事実です。もちろん、言葉がコミュニケーションに使われているのは事実です。

 しかし、それ以前に、先にも触れたように、言葉は「秩序立った世界を自分自身が認識すること」そのものなのです。たとえば、本を「本」だと認識するためには、「本」という言葉がなければならない。もし言語がなければ、私たちは個物を認識できません。その、「私」という認識の主体すら、言語によってもたらされた概念です。つまり「言語は存在」なのです。

 第二の錯誤は「音声中心主義」です。

 表音文字を用いる文化圏に特有の見方ですが、要するに、意味というものを担っているのは音声であって、書き言葉は単に、話し言葉に写したものに過ぎないという思い込みです。文字そのものに意味はないと。

 これは、「音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない」(高島俊男)という特徴を持つ日本語には、まったく妥当しません。ですから、日本語の表記を全部「表音文字化」してしまうのは、どだい無理なのです。

 この二つを合わせて「表音主義」と呼びます。さっき引用した作家の水村美苗さんは、「『表音主義』の西洋からの輸入。それは日本語が果たして人間が使うのに正しい言葉なのかという自信のなさを日本人のなかで深めただけではなかった。それは、戦後の日本語教育において、<書き言葉>はどういうものであるかの基本的な認識を誤らせた」(『増補 日本語が亡びるとき』ちくま文庫p.379-379)とも指摘しています。そして、「表音主義者たちの誤った言語観がもっとも露骨にあらわれるのが漢字排除論である」とも(同p.369)。

 水村さんは12歳のときに渡米した、バイリンガルです。つまり、英語も日本語も知りつくしたうえで、こう述べているのです。

田原 一般的には「言葉は道具だ」と思われていますが、「言葉とはすなわち存在だ」と。

宮崎 「言葉はコミュニケーションの道具にすぎない」という考え方(言語=道具観)と、「音声がすなわち意味をもたらすのだ」(音声中心主義)という考え方、この両者が撚(よ)り合わさって、「表音文字はすばらしい。日本語もこれにならって『国字』改良を行うべきだ」という「表音主義」が生まれる。それが今日の「平明な言葉を使うべし」という通念につながっているんです。森有礼や西周は、そういうことを認識も理解もしていなかった。

おふたり

田原 江戸時代、いわゆる「鎖国」政策をずっとしていて、明治になって国を開き、西洋文明が一気に入ってきた。それを機に「我々もローマ字を使おう」という運動が起こるのはまだ理解できますが、戦後はなぜなのでしょう。

宮崎 戦後直後には、前述の通り、GHQの意向が強い追い風としてありました。明治以来くすぶっていた表音化論者(ローマ字論者、仮名文字論者)にとって、またとない好機到来だったに違いありません。

 GHQも当初、漢字の習得が一般大衆には難しく、民主化を阻害する原因だとみなしていた。日本の大新聞までがこれに追随した。かくして、「表音化は民主化」という観念連合が広まったのです。

田原 「漢字仮名交じり文は理解できない、けしからん」と。しかし、仮名のみにするというのがわからない。普通に考えて、ひらがなだけの文なんて読みづらいですよね。それなのにどうしてそんなことを言うのでしょうか。

宮崎 水村さんが指摘されているように、表音主義者たちは、言語というものについて、とくに「書き言葉」について、ちゃんと考えていなかったんじゃないでしょうか。

 繰り返しになりますが、同じ発音の語でも、例えば「タイショウ」と音声で言われたときに、私たちの脳裏にはまず、「対象」「対照」「対称」「大正」「大将」「大勝」「隊商」「大賞」「対症」「大笑」など、多くの同音異義語が浮かびます。そこで文脈に応じた漢語を即座に選択する。そうしてはじめて日本語は意味を持つのです。漢字、漢語が意味を担っている。

 もし仮に「日本語の全面的な仮名化」を実現したとしましょう。「漢字はすっかり排除された」とする。その場合でも、文から意味を読み取るためには、私たちは脳内で漢字、漢語を思い浮かべるしかないのです。

 この「漢字、漢語の呪縛」から逃れるためには、純粋な仮名表記のための、まったく新たな語彙体系を構築しなければならなくなります。そうすると、仮名の音節文字という限界も、やがて見直さねばならないはずです。これはもはや「文化の否定」以外の何ものでもない。これなら、日本語を完全に、英語やフランス語にリプレースすべきだという意見のほうがまだしも理があります。日本語表記を表音化し、正書法を確立しようという動向の果てにあるものです。

田原 正書法がないのは、悪いことなのでしょうか。いろいろな表記や文字種があるところが、日本語の良いところだと思っているのですが。

宮崎 いいえ。悪いことでも、劣っているわけでもない。実は良いも悪いもないんです。「表音文字が使われている圏域においては正書法が確立しやすいよね」というだけです。正書法があろうが、なかろうが、言葉の価値に優劣はありません。ソシュールなんかはそこがわからず、音声中心主義を唱えたのです。 
※フェルディナンド・ソシュール/Ferdinand de Saussure(1857〜1913年)……スイスの言語学者。印欧祖語の母音組織を究明、また、歴史主義的言語学に対して、一般言語学の方法を提唱。記号学としての言語学の確立をめざした(小学館 日本国語大辞典より)

 さっき、英語の表記は表音文字でなされ、「正書法が確立している」と言いましたが、厳密にいえばそうでもないのです。

田原 そうなんですか?

宮崎 「音声から文字への変換」はそうかもしれませんが、逆方向の「文字から音声への変換」は、それほど単純ではありません。

 これは英語の初学者が呆然とする場面ですが、Aという字一つとっても、読み方がいくつもあります。そもそも、語ごとに発音記号なるものが存在すること自体、「文字から音声への変換」が一筋縄ではいかないことを示しています。

 例えば「ewe(雌羊)」という単語がありますが、これは[júː]と読みます。「you(あなた)」と同じ。綴(つづ)りだけを見て「ユゥー」(※カタカナで近似)と発音できる人は多くないでしょう。ただ、Ewan McGregor(ユアン・マクレガー)という高名な俳優がいるので、そこから類推できるかもしれませんが。このように英語にも難読語があるのです。

 言語には普遍的な深層構造があります。それはチョムスキーのいうようにホモ・サピエンスの遺伝子に書き込まれたものでしょう。しかし、言語の表現の形態は千差万別であり多様です。そして言語には固有の進化があります。

 漢字のみで日本語を記していた時期がまずあり、やがて9世紀後半頃に仮名が生まれ、然るに漢字は棄てず、仮名と漢字とを併せ用いる「漢字仮名交じり」表記が一般化して、現在にいたった――。

 この進化のかたちを、作為的に、あるいは政策的に歪(ゆが)めることは、本来あってはなりません。言語文化というエコシステム、言語生態系を破壊する行為だからです。

 まあ、話がここらへんまで及ぶと、私の仏教論とも関わってくるわけですが……。