地下へ潜った病院壕の
知られざる悲惨な状況
こうして壕の中に機能を移さなければならなかったのは役場だけではない。数多の負傷者の治療にあたる病院も同様で、そのひとつが沖縄県島尻郡南風原町にある「陸軍病院南風原壕」だ。
もともとは那覇市内の中学校などを使用していたが、空襲で校舎が焼失したことから、現在も南風原町内に存在している南風原小学校(当時の名称は南風原国民学校)に機能を移して傷病兵の治療にあたったこの施設。さらにこの小学校の校舎も焼けてしまうと、病院機能は地下に潜らざるを得なくなった。
陸軍病院南風原壕は本部壕のほか、第一外科の壕が23本、第二外科の壕が7本、そして伝染病患者を収容した第三外科の壕が3本構築された大規模なもの。内部の構造は高さ180センチ、幅180センチの設計で、90センチ間隔で補強用の坑木が組み込まれているのが特徴だ。
当時を知る戦争体験者の証言によれば、日中は敵軍による爆撃が絶えず、振動が止まないため、医師たちはもっぱら夜間に手術を行っていたという。ある者はろうそくで医師の手元を照らし、またある者は無麻酔での手術の痛みに暴れる患者の手足を押さえながら、不十分な薬剤や道具でできるかぎりの処置がここで行われたのだ。
なお、運ばれてくる患者の中には、腹から内臓がはみ出していたり、体の一部がえぐり取られていたり、ひと目で重傷者とわかる者が少なくなかったそうで、壕内は糞尿や膿の匂い、あるいは収容された人々の体臭で、常にむせ返るような異臭が充満していたという。