38度線以北の日本人は
住む家を奪われた

 南朝鮮に軍政を敷いた米軍は、在留邦人を早期に日本本土へ送還する方針を徹底させ、約45万人の一般邦人は1946年春までに、ほとんど引き揚げた。南朝鮮では日本人が住んでいた家屋は、彼らが出て行った後に朝鮮人の手に渡ることが多かった。

 しかし、北朝鮮では状況を異にした。

 北朝鮮に進駐したソ連軍は終戦から10日後の1945年8月25日までに、北緯38度線を一方的に封鎖した。鴨緑江を挟んで中国と向き合う北朝鮮北西部・平安北道新義州(シニジュ)と京城を結ぶ京義線、京城と元山(ウォンサン)を結ぶ京元線など、南北を結ぶ鉄道や道路などの交通手段は遮断され、人と物の往来は極めて困難になる。

 当時、北朝鮮に住んでいた日本人は約25万人。そのうち約5万人は北緯38度線が封鎖される前に南朝鮮に渡ったとされるが、ほとんどが北朝鮮に閉じ込められることになった。

 ソ連軍と新しく生まれた朝鮮人の公共団体は、それまで日本人が所有していた大きな住宅や施設を次々に取り上げていった。中心都市・平壌(ピョンヤン)や咸鏡南道(ハムギョンナムド)の咸興(ハムン)、元山など日本人が多かった都市では、日本人が住む空間は圧縮されていく。平壌はソ連占領軍司令部の膝下であり、北朝鮮人民政権の中枢部だったため、ソ連軍や北朝鮮側は多くの住宅や建物の接収を進めた。

 平壌の日本人援護団体「平壌日本人会」がまとめた統計によると、終戦時に5732戸に日本人3万1388人が居住していたが、1945年12月8日には、日本人の家224戸、朝鮮人の家738戸、接収された家2325戸、学校などの集団収容所39戸、物置・倉庫64戸に、3万6842人が住んでいたと報告されている。居住者が増えたのは満州から避難民が南下したためとみられる。

 また、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』によると、咸興の場合、終戦前に2260戸あった日本人の住宅は、1945年末には1028戸と半分以下に減った。