ただでさえ日本人の住む場所が狭くなっている都市、中でも咸興や元山、興南(フンナム)など東海岸の大きな都市には、ソ連軍による戦火を逃れた朝鮮奥地の避難民が大量に押し寄せたことによって、劣悪な環境に拍車をかけた。
咸興に押し寄せる日本人避難民を
朝鮮人「保安隊」は銃で追い払った
9月20日朝。前日に貨物列車に乗って北方の海岸都市・城津を発った、会寧商業学校3年だった赤尾覺は、咸興駅前広場の様子に目を見張った。列車で南下し、北緯38度線近くの鉄原(チョロン)でソ連軍に阻止されて咸興まで逆送された人々と、赤尾が乗って来た貨物列車で咸興に着いた避難民を合わせた約4000人の日本人がひしめいていた。
炊事のための燃料をどこからか拾い集めてきて、朝食の支度をする煙が立ち上っていた。駅の便所では間に合わず、あちらこちらで恥も外聞もなく、排泄物を垂れ流していた。
「午前10時までに広場を退去し、咸興市外に出ろ。さもないと銃殺する」
満州との国境に近い会寧を両親や弟妹5人と一緒に離れて30数日目。赤尾一家が朝食を取っていると、武装した朝鮮人の保安隊員が声を上げた。この日は、興南に日本軍が戦時中に抑留した英国軍とオーストラリア軍の捕虜を、南朝鮮に進駐した米軍が引き取りに来る予定だった。
ソ連軍は、自軍の占領する地域の荒廃した状況を恥部と考えたのか、米軍側の目に触れない所に避難民を追い払うよう命じていた。
武装した保安隊員に監視されながら、4000人の避難民は列をなして南行した。夕暮れ近くに、約8キロ離れた市外の荒れ地に放り出された。
「河原に板きれや筵で小屋を作って野宿したのね。ところが、5日目からは雨が降りだした。川の水かさが増して危なくなったので、小屋を放棄して堤防の上に避難したけど、次の日に戻ると、小屋は跡形もなくなっていた」
別の避難民の回想を、『朝鮮終戦の記録』は次のように伝える。
〈毎日、雨にうたれて堤防に起き伏しする。持っていた米がだんだんなくなる。最後の三日はまったく食うものがなく、親子してじっと坐っていた。雨にうたれて、すっかり腹の底まで冷えきった。夕方に朝鮮家のわら屋根の煙突からほそぼそと夕食の煙がたなびくのをみたとき、親と子は相擁して泣きくずれた〉