四畳半の部屋に10人がスシ詰め
劣悪な環境で多数が倒れていった

 9月26日、4000人は咸興市内に戻ることが許される。分散して民家や旧遊郭地域の家屋、学校、企業倉庫などに収容された。赤尾一家は別の避難民と共に民家の一室をあてがわれた。四畳半の部屋に全部で10人。夜になると、大人は壁に寄りかかって寝た。幼い子は親が膝の上に載せて寝かせた。

 北朝鮮の秋は短い。咸興郊外ではコメの収穫が終わっていた。朝鮮人農家の農作業を手伝って、労賃の代わりに収穫物をもらうこともできなくなった。赤尾の母は、朝鮮人農家に食べ物を無心する「乞食行脚」(赤尾)を始める。

 驚くべき数字がある。咸興日本人委員会がまとめた「北鮮戦災現地報告書」によると、咸興に殺到した避難民は9月中・下旬には、在住者の2倍以上の2万5214人を数えた。旧遊郭地域のある元料亭には11月9日時点で713人の避難民が収容され、一畳当たりの空間に4人強が居住していた。報告書は流入する避難民の惨状を次のように記録する。

書影『奪還-日本人難民6万人を救った男-』(新潮社)『奪還-日本人難民6万人を救った男-』(新潮社)
城内康伸 著

〈疲労しきった身に鞭うちながら、目ざす咸興に到着した時には、避難途次に遭った掠奪で、所持品は底の軽くなったリュックサックと、わずかに二つ三つの風呂敷包みくらいが掛け替えのない財産となり、身辺を振り返って暗然とさせられるのも道理であった。

 親戚・知人や縁故を頼って家庭に入りこんだものは、不自由な中から分けて食べ、分けて着ることが出来たので、まだしも幸福だった。

 ただ漠然と咸興を一時の安住地と定めた人たちは、やむなく武徳殿、支那料理店の泰華楼、巡査教習所、馳馬台国民学校、各寺院、神社、倉庫など、大きい建物に住居をもとめて、ぞくぞく入り込み、瞬く間にどこも屋内は溢れるばかりの避難者でスシ詰めとなり、遅れて入咸した人々は、軒下に雨露を凌ぎ、路傍に菰一枚をかぶり仮寝する者も少なくない有様であった。

 この惨状を見るに忍びず、世話会でこれら避難者の市内各家庭への分宿計画をたて、九月十一日から収容力に従って全市に割り当て、野宿者の一掃に乗りだした。だが集団生活所の超満員は、まだ十分緩和するに至らず、長途の難行にすっかり動く気力を失い、その上、配給のない食糧不足から栄養不良に陥って、頑丈な青壮年の男子も相次いで倒れた〉