これに対し、少子化・人口減少問題については近い将来、そうした明確な破局は到来しない。冒頭の人影のまばらなボートのイメージと重なるが、客観的には危機は進行するものの、それはあくまでも静かな危機が確実に深まっていくという性格のものである。
静かであるがゆえに、危機意識は高まらず、必要な行動はとられにくい。
それでは、なぜ、少子化・人口減少問題に関する危機感は共有されないのだろうか。
明治の初めの人口規模に戻るだけ?
そんな悠長な話ではない
第1の、そして最も大きな理由は、人口減少が止まらない社会への想像力が働きにくいことにある。「明治の初めの人口規模に戻るだけ」といった反応を耳にすることもあるが、そんな悠長な話ではない。
もし人口が減少しても、それが静止人口であれば問題はまだ小さいと言えるが、そこで静止しないことが問題の根源である。かなり先ではあっても、どこかで人口減少が止まるという展望が持てないかぎり、絶えざる縮小が続く。
第2の理由は、戦前の「産めよ殖やせよ」への反省もあり、少子化を止める必要があるとの議論を展開することに対し、専門家が躊躇していることである。
専門家は個人の価値観の領域に介入しようとしているのではない。専門家が行おうとしているのは社会の持続可能性、サステナビリティーを考えるための問題提起である。
例えば、「子育てに優しくない環境」は育児に従事する若い夫婦に個人的負担をかけるだけでなく、子供の数、ひいては将来の働き手の数の減少を通じて、回り回って、子供を持つ、持たないにかかわらず、将来世代の年金の受給額に影響を与える。
つまり個人から見た景色と、そうした個人の集合である社会から見た景色が異なることが、少子化・人口減少問題の本質である。私的費用と社会的費用、私的便益と社会的便益が乖離している問題と言ってもよい。
この点では、少子化・人口減少問題は気候変動への対応の問題と似ている。個々の経済主体の行う活動に伴う二酸化炭素排出の問題を議論したからといって、誰も個人の価値観の領域に入り込んでいるとは言わないと思う。個々の二酸化炭素排出にブレーキをかけないと、地球全体として気候変動の問題を惹起し、社会の持続可能性が脅かされる。