予想はしていたものの、実績はそう簡単には上がりませんでした。どこへいっても「売薬の薬なんて店に置けません」と言われ、相手にもしてもらえません。そのとき忠松が考えたことは、はからずも順蔵と同じでした。

「まずはケロリンの名前を知ってもらい、消費者が薬局へ名指しで買いに行くようにしよう」と、ケロリンの新しい広告戦略をスタートさせました。(編集部注/順蔵は昭和戦前期に、ボクシングや野球の試合会場にケロリンの垂れ幕をかけるなど、広告戦略に力を入れていた。)

孤軍奮闘の中で現れた
思いがけない協力者

 戦後すぐはラジオの時代で、昭和26年から民間放送局が続々と誕生し、巷にCMソング(コマソン)が流れ出ていました。忠松もコマソンの制作を決意し、昭和33年に「ケロリン青空晴れた空」が完成しました。作詞・サトウハチロー/作曲・服部良一/歌・楠トシエは、当時の豪華メンバーです。

 この歌はソノシートもつくられ、消費者プレゼントやキャンペーンの販促ツールとして活用され、売上増に大きく貢献しました。また、キャラバン隊もつねにコマソンを流しながら、北へ南へと走り抜きました。

 しかし、実績は上がっても非難の声が止みません。社内からは「広告費を使いすぎる」「社員を連れて大名旅行とはなにごとか」とやっかまれ、配置薬業界からは「消費者の配置離れを促進するものだ」と白い目でみられました。

 社内外に理解者を得られず孤軍奮闘する忠松に、やがて思いがけない協力者が現れます。それが14歳年下の山浦和明でした。

左が山浦和明、右は笹山敬輔同書より転載

そしていよいよ
「ケロリン桶」が誕生

 山浦はもともとディーゼル機関車の営業マンでした。昭和15年に現在の東京都台東区上野に生まれ、高校を卒業して三菱日本重工業の代理店に入社し、北海道で国鉄に機関車を売り歩いていました。