さまざまな死に触れて
「ふつう」に生きる幸運を知る
そんな疑問を持つヒマがあったら、もっとシビアな現実を見たほうがいい。
先日、NHKの「プロジェクトX」の再放送で、日本初の骨髄バンクを作った人々が紹介されていた(「決断命の一滴~白血病・日本初の骨髄バンク~」)。
その中で、白血病のために15歳で亡くなった少女の作文が紹介されていた。
「将来について」と題された作文で、ナレーションの田口トモロヲ氏が、抑えた口調で朗読した。
『私は、ふつうの高校生になって、ふつうのお嫁さんになって、ふつうのお母さんになって、ふつうのおばあさんになって、ふつうに死にたい』

少女はその『ふつう』をすべて叶えられずに亡くなった。
私は同級生を3人、白血病で亡くしている。女性ばかりで、1人は中学生のとき、1人は高校生のとき、1人は20代だった。ふつうに生きて、ふつうに年を取って、ふつうに暮らせずに亡くなる人が、この世には大勢いる。外科医、麻酔科医として病院勤めをしていたときも、若くして亡くなる人、理不尽な病気で亡くなる人、後ろ髪を引かれるようにして亡くなる人、心残りや無念の思いに苦しみながら亡くなる人をたくさん見た。
ふつうに生きていることが、実は得がたい幸運で喜ぶべきことと知ったら、生きることに価値があるかどうかなど、考える気にはならないのではないか。ましてや、少しでも長生きをしたいとか、いつまでも元気でいたいとか、寝たきりになりたくない、がんや認知症になりたくないなどと、血眼になることが、いかに多くを求めすぎているかがわかるだろう。
そんなことを言われても困るという人も多いだろうが、ふつうであることの幸運を、十分認識すれば、生きることも少しは楽になると私は思う。