キャノンが否定した村井の関与を
覆す反論文書が見つかった

 組織の長に誰を据えたらいいかという緒方の質問には、キャノン機関によく出入りしていた国警課長の村井の名前を挙げ、「われわれが推薦するとかしないとかいえる筋合いではありません。しかし、キャノンもわたしも、村井順については、ひじょうに良い印象を持っています」。延禎はそう述べたのだった。

「Z機関、ひそかに緒方竹虎に協力」は、さらに村井の「内閣調査室の思い出」にもふれている。村井が吉田首相に情報機関の開設を直訴した1952年4月より3ヵ月早く、キャノンと延禎が吉田、緒方と相談したことを強調し、「最初の発案者が、吉田氏であったか緒方氏であったか……そこらへんは分からない。だが少なくとも、村井氏でなかったように思うのだが」と記した。

『キャノン機関からの証言』は、1970年11月に延禎が渡米してキャノンに会い、事実関係を確認したうえで公表されている。

 ただ2人ですり合わせたとはいえ、キャノン側の見方であるし、何よりキャノン機関は世論工作はもちろん、場合によっては脱法行為も辞さない諜報機関とされてきた。内調をめぐる証言も別の資料や証言に照らし合わせる必要があるのでは、と筆者は考えていた。それがひょんなことから、当事者の“反論”が見つかったのである。

 志垣民郎(編集部注/文部省を経て経済調査庁に勤めていた当時、村井の誘いで内調の創生期のメンバーとなり、後に主幹を務めた)が自宅に遺した資料を、筆者が閲覧していた時のことだった。

 村井順が「キャノン機関からの証言」に対する意見をまとめた、B5判3頁の活字の文書が出てきたのである。1971(昭和46)年7月10日に時の内閣調査室長川島廣守に宛てた釈明というべきものだった。

 当時の新聞広告を調べてみると、「Z機関ひそかに緒方竹虎に協力」が掲載された『週刊文春』1971年7月19日号が発売されたのは同年7月9日、つまり村井順の釈明の文書は翌日に出されたことになる。そのとき村井は官界を去り、綜合警備保障株式会社の代表取締役という立場だった。

 しかも7月10日は土曜にあたっていた。国家公務員に週休2日制が取り入れられたのはずっと先の1992(平成4)年だが、それにしても、雑誌の出版された翌日に古巣の内調に意見書を提出する村井という人物の行動力と内調に対するこだわりに瞠目した。