米国の関与はなかったと
村井が8項目にわたり大反論

 村井に傾倒していた志垣の1971年7月9日(金)の日記にも、村井から電話があり、室長との間を取り持った旨の記述がある。

 8項目の箇条書きにまとめられた、村井の見解はおおむね次の通りである。

(1)記事にあるような事実については全く初耳であり、当時吉田さんからも緒方さんからも聞いたことがない。

(2)しかし、キャノン氏が吉田さん、緒方さんに情報機関について説明することはあり得るし、否定するつもりもない。おそらく吉田さんも緒方さんもその説明を興味深く聞き置く程度だったのではないか。

(3)というのは、その後お2人から情報機関設置の話を聞いたという閣僚が1人もいないからだ。これは当時の内閣の記録を調べれば判明することと思う。

(4)私自身はキャノン氏からも延禎氏からも情報機関の話を聞いたことはない。私は単に吉田さんに「すべての独立国は情報機関を持つべきであり、特に敗戦国日本には必要である」旨の意見を進言したにすぎない。

(5)吉田総理は私の進言を聞いて直ちにこれを取り上げ、閣議に諮り、各省から意見を聴取し、その設置方を命令したと聞いている。その時の経緯は当時の官房長官の保利(茂=引用者註)さんが万事記憶していることと思う。また当時の内閣の資料を見れば明白である。

(6)というわけで、内閣調査室は日本政府が独自の判断で設置したものであり、米国のCIAや英国のMI5等とは全く性格の異なる地味な調査機関であって、それは内調の実績を見れば明白なところである。

(7)なお当時吉田さんと緒方さんが考えていた情報機関はキャノン氏が進言したようなものとは全く構想の違うものであったことは有名であった(吉田さんは国民に正しい情報を知らせる機関を、緒方さんは戦前の同盟通信のような機関を考えていたと記憶している)。

(8)キャノン氏は室長の人選についてまで緒方さんと話し合ったようになっているが、自分は調査室長になるまで緒方さんと一度もお会いしたことはない(それは当時の緒方さんの側近の人たちに聞けば判明すると思う)。

 村井の言を信じるなら、吉田や緒方とキャノン機関の接触が事実だったとしても戦後の内閣情報機構新設に与えた影響はかなり限定的ということになる。延禎が言うように、戦後初めての情報組織が世の中の反発を買うことを恐れ、村井が偽りの証言をした様子はうかがえない。