「あのとき、シンガポールから3月下旬に出港する帰還船『阿波丸』が最も安全な便だと評判でした。国際赤十字の仲介で日本の占領地にいる連合国の捕虜に救援品を届ける特別な船でしたから。だから、私もそれで帰りたかったんです。しかし、こちらの方が早いからと旧式の双発爆撃機で帰ることになりましてね。生きた心地がしませんでしたよ。高度4500メートルの寒空の中、支給された毛布一枚だけで寒さに耐え、頭痛に苦しみながら、ただ無事を祈るしかない。それでも、爆撃任務に出た兵士たちのことを思えば、文句を言うなんて許されません。『ありがたいことだ』と自分に言い聞かせながらひたすら耐えました……上空から無事、富士山を拝んだときは涙がこぼれました」
「そうだったのか……戦争では、本当に多くの命が失われた。軍人も民間人も合わせて310万人というが、東南アジアで石油開発に従事していた技術者たちも相当な犠牲を払っただろう」
山内の声は震えていた。
「私が乗るつもりだった阿波丸は、シンガポールを出港した後、洋上で消息を絶ち、乗船していた450人の石油開発者がみな犠牲になりました。あの戦争で命を失った石油関係者は2000人ともいいます。油田への爆撃で、逃亡中のジャングルで、帰還船の遭難で、多くの仲間が命を落としました。私がここにいるのは、単に運がよかっただけです。石油人として国のために斃(たお)れた同僚、後輩のことは、私は生き永らえた者の1人として、常に忘れることはありません」
太郎は山内を真っ直ぐに見つめ、力強く語りかけた。
「報道で知っているとは思うが、この度、アラビアで石油開発の利権を獲得した。日本が自力で油田を持つことの意義は、君なら痛いほど分かるはずだ。是非、現場での総指揮を執ってくれないだろうか」
山内は驚いたように目を見開き、しばらく沈黙した。やがてゆっくりと背筋を伸ばし、明治人らしい落ち着きと深い声で自らに語りかけるように言った。
「石油の乏しい日本に生まれ、石油事業に携わった仲間たちは、海外の開発のために幾多の苦難を耐え抜きながら、志を果たせぬまま散っていきました……」
そして太郎を見つめ、力強い決意を込めて言葉を続けた。
「すっかり隠居するつもりでおりましたが、私でお役に立てるのであれば、その仕事をやらせてください」
現代の起業家や経営者が持ちうる
共通の原動力、価値観とは
こうして、戦争という巨大な犠牲の記憶を胸に刻んだ技術者と経営者が、再び「石油を掘る」という挑戦に共に歩み出しました。







