けれども、それらの出来事が、自分にとってまったく意味のなかったことかと問われれば、そのようには感じません。

 あの出来事があったから、自分は人にたいして同じようなことはしたくない。あんな嫌味なことを言われたから、自分は人にたいしては優しく接しよう、と今でも反面教師となって、自分の襟を正してくれています。

無理に相手を好きになるよりも
心地よい関わり方を探せばいい

 仏教や禅は正論ではありません。苦手は苦手、嫌は嫌でそのまま感じ取れば大丈夫です。

 苦手や嫌を無理に得意や好きに変える必要はありませんが、その後の自分の行動によって、成長の糧にはなってくれる。

 少し発想を転換して、違った角度から見ることによって、心地よくその相手と付き合う方法を見出すことができるのではないかと思います。

 禅には「殺人刀・活人剣」という教えもあります。

「一本の剣も、人を殺める刀になれば、人を活かす剣にもなる」。その人を活かすも殺すも、まさに自分次第。であるならば、ぜひともその人の自分なりの活かし方を考えていくのが、禅の醍醐味でもあります。

 自分にたいしては、自分勝手でいいのです。みんなわがままな生き物ですから。

 自分だって他の誰かから見れば、苦手で嫌な人かもしれません。

 だからこそ、自分を大切にして、自分なりのその人との関わり方を考えていく先に、必ず幸せが訪れてくれます。

「嫌味な人が、ひょっとして自分に何かしらの気遣いや優しい言葉やプレゼントをくれる日がいつか来るかもしれない!」

 そんな希望を抱いて過ごしていくのも、また人間関係を構築する中での一興ではないでしょうか。