祖父は潜伏キリシタンの末裔として、長崎市内で新婚生活を送っていました。
結婚してすぐに赤ちゃんを亡くしたばかりでしたが、曾祖父と奥さんと共に、戦下でも仲睦まじく質素に幸せに暮らしていたそうです。
しかし原爆で、一緒に暮らす家族を全員亡くすことになります。
教師だった祖父は爆心地から少し離れた場所で生徒と作業していたために被害が少なかったようですが、実家のある浦上は爆心地から500m~1km以内。
必死に曾祖父と奥さんを探すも、骨さえ見つからなかったそうです。
そしてとても大事にしていた実妹も、被爆から1ヵ月で亡くなりました。
家族を全員失う。
想像を絶する、耐え難い悲しみでしょう。
ですがそのなかにあってさえ、祖父の口から出てきた言葉は「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」だったそうです。
この被爆体験は『原子野の「ヨブ記」』という本に、ひとつの体験記として書かれています。
どれだけ悲惨な人生にも意味はある
私たち一族は原爆投下から約80年経った今も、その後遺症に苦しんでいます。祖父は孫が生まれるたびに、まず五体満足かじっくり見てから、最後に喜んでいたと母から聞いたことがあります。
それでも祖父は、原爆を落としたアメリカ人を憎まないと話していたそうです。
あんな酷いことをされたのに、バカじゃないか。
周囲には、そう言って呆れる人もいたそうです。
なぜ祖父は、一生忘れることのできない深い傷を負わせた相手を赦せたのか。その答えは、祖父の本に書いてありました。
「目の前の孤児を助けることに必死だった」
祖父は被爆後、先ほど紹介したゼノ修道士たちとともに、悲しむ暇もないままに、戦争孤児のための孤児院を作ることに奔走した時期があったようです。
きっとそうしなければ、深い悲しみに覆われて前に進めなかったのでしょう。目の前に愛すべき存在があったから、憎しみの感情に囚われなかったのです。
しかし孤児院設立から数年後、放火によって7人の孤児を失った責任を感じて、祖父は園長をやめることになります。ここまでくると、人生に意味など見出せなくなってしまいそうです。それでも祖父は粛々と命をつないで、多くの子どもと孫を遺してくれました。
そのおかげで、今の私があります。
残念ながら私の自我が芽生える前に、祖父は他界してしまいました。深く話すことは叶いませんでしたが、聞くところでは、施設をやめてからも教員として関わり、一般の生徒からも慕われていたそうです。晩年まで孤児の卒業生たちがよく家を訪ねてきて、「お父さん」と呼ばれて慕われていたようでした。
罪を憎んで人を憎まず。
私には到底できませんが、それを実行した祖父を心から尊敬しています。
慰められるよりも、慰める者に
ヨブが子を全員失ったように。
祖父が家族を全員失ったように。
ときに人生は、これでもかという苦しみを与えてきます。
理解できない苦しみを受けたとき、私たちはどうすべきなのでしょうか。正直、当事者になったことのない私にもわかりませんし、無責任なことは言えないとも思います。
ですが祖父のように、憎しみを愛に変換してみるのも手なのだと思います。「つらさを善行で紛らわす」ということです。