これより6年前の1948年4月下旬。満州・奉天(現遼寧省瀋陽)の第3方面軍情報部主任参謀だった志位はソ連・カザフ共和国カラガンダ市の第20収容所に抑留されていた。そこで通訳兼労働監督の仕事をしていた時、モスクワから来たらしいソ連内務省の中佐に収容所の外の建物に呼び出され、尋問を受けた。その模様が警視庁公安部の部外秘の報告書「ラストボロフ事件・総括」(619ページ)に記されている。
「将来、ソ連に協力する意思はないか」
中佐が切り出すと、志位が答えた。
「日本の独立と将来の平和のためには、いずれの国とも協力する。それが私ども旧日本人将校として祖国に対する当然の義務であると思う。しかし、こと天皇に関する限り、あなたとは意見が違うようだが、それでもよいか」
「構わぬ。ソ連は長い将来にわたって平和を望んでいる。また決して革命を日本に輸出しようとは思っていない」
翌日、中佐は再び志位を呼び出し「現在の心境を日本語で構わないから書け」と命じた。
「米ソ対立の中間に位置する日本人として将来進むべき道は平和で、それがたとえ局部的なものであろうと、それを確保することが必要である」と、志位は書いた。
拒めば命が危ない……
志位は誓約書にサインした
中佐は志位の写真を、正面・側方・斜め前方の三方から撮り、今度は罫紙を出し「通訳の言う通り、対ソ協力の誓約書を書け」と迫った。
ためらう志位に、中佐はこうささやいた。
「軽い気持ちでサインしておけば早く帰国できるし、日本のためにもなる」
志位はペンを執った。拒めば命が危ないと思ったからだ。
「私は、帰国後ソ連邦内務省の所属機関に対して協力いたします。もし協力しない場合にはいかなる処罰を受けても差し支えありません 1948年4月 志位正二」
その場で日本の連絡員との合言葉が決まった。万葉の歌人山上憶良が宴席から退出する時、子供や妻を思ってうたった歌だった。
「憶良等は今は罷らむ子哭くらむ その彼の母も吾を待つらむぞ」
連絡員がこの歌の前半を言ったら、志位が後半を答えなければならない。中佐は日本に帰国してからの注意事項を付け加えた。