1951年9月14日金曜日の午後8時ごろ、志位正二は東京・丸の内の帝国劇場裏へ行った。そこには「SCAPJ 45」のナンバープレートをつけた乗用車が止まっていた。
突然、車内からラストボロフに「この車に乗りなさい」と声を掛けられた。志位は言われるままに乗り込んだ。
行き先は麻布狸穴(当時)の在日ソ連代表部だった。本館隣の建物に入るとラストボロフがロシア語で言った。
「あなたの任務は日本の再軍備状況と政治情報を報告することである。上司はあなたに期待している」
この6日前、サンフランシスコで対日講和条約(ソ連は調印拒否)と日米安保条約が結ばれていた。米国一辺倒の条約は日本を再び東西両陣営の戦争に巻き込む……志位はそう考えソ連に協力を誓った。
日本の平和と真の独立のため
米国を日本から追い出したかった
「米国のデモクラシーというものは、結局米国人だけのもので、いわば他国民を犠牲にして、その上に自国民の安全と平和と繁栄を築き上げるという極めて利己的なものである。この押しつけられた条約のもとで日本がこのまま進めば、再び日本民族に破局と絶滅をもたらす戦争に追い込まれることは必至である。日本の平和と真の独立のために自分がなし得ることは、ソ連に協力してソ連・中国と平和関係を結び、その上で米国に圧力をかけてもらい、最後に米国を日本から追い出すことにある」(志位供述)
翌10月。志位は再び帝国劇場裏でラストボロフと会い、在日ソ連代表部に行った。そこでラストボロフから連絡方法について具体的な指示を受けた。
「時間厳守(時計は時報で調整すること)」
「指定時間の待ち合わせは5分以内とする」
「危険を感じたら絶対連絡しない。その場合、次回の連絡は次週の金曜日、同時刻とする」
「連絡用紙は警察官に発見されないように靴の敷革の下や帽子の汗取りの内側など安全な場所に隠して歩くこと」
ラストボロフはさらに「提供する情報はロシア語で書くこと。そして情報源を明らかにすること」を要求した。