「帰国後、日本共産党、旧軍部、米軍当局に一切関係しないこと。そして自分から進んでソ連代表部に連絡しないこと」
志位は半年後にナホトカからの帰還船で帰国する。間もなくソ連情勢通として東京・丸の内の日本郵船ビルのGHQ参謀第2部(G2=情報・治安担当)地理課に勤務した。
1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。ラストボロフが近づいてきたのはその戦火が続く1951年9月7日だった。
その朝6時50分ごろ、志位はいつも通りGHQに出勤するため東京都世田谷区経堂の自宅を出た。見知らぬ外国人が、近くの路上に止まっていた小型ジープから降り、英語で話し掛けてきた。ラストボロフだった。
「たばこの火を貸してくれ」
マッチをすってやると、ラストボロフは志位のワイシャツのポケットに紙片を入れた。
志位がそれを取り出して見ようとすると、ラストボロフは「後で」と言い残し、ジープで立ち去った。
東京駅行きのバスの中で紙片を見た。漢字交じりの日本語で、あの合言葉が記されていた。
「子供も母親もあなたを待っています。次週の金曜日の午後7時半から8時の間に帝国劇場の裏で会いたい」
志位は既に前年6月、米軍防諜部隊CICの係官からソ連抑留中の出来事について取り調べを受けていた。係官に、対ソ協力の誓約をした事実を告白し「もしソ連側から接触があれば通報する」と約束していた。
米ソ冷戦のはざまで
揺れる志位の心
ラストボロフの呼び出しに応じるかどうか。米ソ冷戦のはざまで志位の心は揺れた。
「志位はロシア語のうまい旧日本陸軍少佐で、陸軍大学校の出身である。同じ陸軍の将官だった父が戦死したことが、彼に強い反米感情を抱かせる結果となった。志位は戦後シベリアで捕虜として抑留され、ここで対ソ協力の誓約をし、帰国後活躍した。私は1951年9月から彼と連絡を持つようになった。彼が提供してくれた情報の中には、米極東軍情報部が作成したシベリアおよび中国の都市の地図も含まれていた。米軍の配置情報はいずれも貴重なものであった。こうして彼に月約4万円の報酬を与え、1954年1月22日まで連絡を続けた」(ラストボロフ供述)