ただ、この文字であれば表現しやすいという側面が、SNS上のコミュニケーションにおいては破壊的な結果をもたらすことになりがちです。たとえ身体的な暴力に至ることはないにせよ、文字による怒りの表現が、現実に誰かを傷つける言葉の暴力になるのであれば、それは大きな問題です。
言葉による暴力だからと言って、軽く考えることはできません。言葉の暴力は、しばしば身体的な暴力以上に人を傷つけます。特にそれが多数によるものであるなら、それは社会的な迫害となり、攻撃されている個人にとっては非常に恐ろしいものとなりえます。
SNSに攻撃的な投稿をする人は、自分の影響力を小さく考えがちで、受け取る側がいかにその投稿に恐怖を感じているかをまったく理解していないことが多いように思います。
顔の見えない匿名の他者から「死ね」「消えろ」などの言葉を大量に浴びせられ続けたら、ほとんどの人間は心が折れてしまうでしょう。
特定の人物や企業などの排除を呼びかける「キャンセル・カルチャー」に見られるように、現代社会はしばしば不寛容な社会だと言われます。そして、そうした現代社会の不寛容さが端的に現れるのがSNSなのです。
多くの人が、現代社会のそうした不寛容を嘆いています。私自身もその1人です。
けれども、現代社会のこうした不寛容について考えるとき、そのことを嘆き、もっと寛容になるべきだと諭す人たちの多くは、この社会の中心に近いところで比較的安定した立場にいることが多いと考えられます。
逆に、不寛容な言説を撒き散らしている人たちの多くは、社会の周辺で不安定な立場にいることが多いように見えることが気になります。
批判ばかりの男性を
生み出した過酷な家庭環境
以前、私がカウンセリングを担当した若い男性は、周囲の誰に対しても不寛容でした。
彼によれば、職場の上司も、同僚も、近所のコンビニの店員も、通勤で使う駅の職員も、誰1人まともな仕事をしておらず、いい加減で適当だと言うのです。毎回、彼は強い口調で辛辣な批判を繰り返し述べました。