私を批判して、もし私がそれに気を悪くして、彼を拒否してしまったら、彼にとって唯一の安心できるつながりが失われてしまうことになります。彼はそれを避けたかったのでしょう。

 そう思えたとき、私は彼に対して愛おしさのような感情を感じるようになりました。

 彼が周りの人たちをいかに不寛容に批判していても、彼の話を寛容に聴くことができるようになりました。怒りを含んだ彼の語りを聴きながら、その語りの内容とは別の次元で、彼の傷つきを感じるようになりました。

 彼がこれまでに受けてきた理不尽な仕打ちの数々を思えば、そしてその理不尽な環境を生き延びてきた彼の血の滲むような苦労を思えば、彼の目には、周囲のたいていの人たちが、誰も彼もいい加減で、適当で、ぬるま湯のような世界でのうのうと生きてきたし、今も生きているように映るのも理解できることだと思うようになりました。

 もちろん、だからと言って、彼の周囲との関わり方がずっとこのままでいいということにはならないでしょう。それでもなお、彼の不寛容な批判を単に歪んだもの、ひねくれたものとして片付けることはできないと思うようになりました。そこには大切に扱うべき思いが埋め込まれていると感じるようになったのです。

 SNSに表現される怒りの話から大きく外れてしまいました。話を元に戻すと、SNSに吹き荒れる不寛容な言説について考える際にも、そうした発信をする匿名の人たちの中には、不条理に不遇な状況に置かれている人たちがたくさんいるのだろうと想像します。

 1つのカウンセリングの事例での経験を社会全体に一般化することには慎重であるべきですが、1つの事例をしっかりと受けとめて、その一事例が社会全体において示唆するところを深く考察することも大事なことだと思います。

※なお、本記事で紹介した事例は、これまでにカウンセラーが経験した複数の事例を組み合わせて作成した架空事例です。